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2021年2月28日 (日)

この世のものでない私たち

ヨハネ 17章14・16節  2017新改訳

わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

 イエス様は世を去って行かれました。どうして去って行かれたのでしょうか? それは「十字架で罪を赦すため」と言うのが大方の見方です。しかし「赦すため」と言うのはある意味、途中の道程に過ぎないのです。地上に降りられた神イエス様は、人間としてでないとできなかったさまざまな事柄・・・・奇蹟や癒やしによってご自分が神であることを証しされ、弟子たちを訓練され、また後に福音書によって後代まで伝えること・・・・を果たされた後、聖霊降臨(ペンテコステ)の為に去って行かれました。なぜなら十字架による罪の赦しは完全であり、これを信じる者には、聖霊なる神が住まわれる条件が整ったからです。
 ですからイエス・キリストをご自分の救い主と信じるなら、聖霊は内住されることでしょう。しかしそれだけでは真に神を主として聞き従うことは、困難なのです。なぜか。水だけのクリスチャンは、まだ自分自身を主としているので、主を自分の主とし、聞き従うことが出来ないのです。かと言って「自分に死ぬ」、これは自分の力では不可能なのです。

 こうして水のバプテスマだけではクリスチャンとしては完全でなく、既に信じていた人たちにも約束のものとして、聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)が必須でした。ペンテコステの日からこれは信仰の前提として、初代教会から幾度も注意深く対応されていたことです。ピリポがサマリヤで大きく用いられましたが、その報告を受けるとエルサレム教会からペテロとヨハネが派遣され、聖霊のバプテスマの祈りと按手(※使徒8章14-18)がされました。サマリヤ人に「聖霊はまだ、彼らのうちのだれにもくだっていなかった」からです。またパウロがエペソに下った時、アポロから信じた弟子たちに聖霊が下っていなかったので、パウロが按手して聖霊のバプテスマを受けさせた(「使徒19章1-7)ました。

 私は水のバプテスマと同時に聖霊のバプテスマが注がれる可能性は排除しませんが、基本、水のバプテスマと聖霊のバプテスマは同じものではないと思っています。私たちは神のことを「主よ」と呼びますが、真に自分の主とし聞き従うことは、聖霊のバプテスマ無しには困難です。「主よ」と呼び求めながら、自分が主であって、神は自分の願いを実現させるためのしもべに過ぎないのが、水のバプテスマの実態です。
 両者に明確な違いがあります。真に信じる者は<この世の者でない>神の国の者となっています。ですから、血肉の死は解放であり、故国、天への凱旋です。殉教はその明確な神のわざです。たとえそうならなくても、神の国の一員として、神の力を身に受け、肉の人でなく聞き従ってみこころを行う者に変えられていることが分かります。「聖霊の宮」を内包する証人として生きています。

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