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2021年3月

2021年3月28日 (日)

受難のメシア

ヨハネ 12章12~13節   新改訳2017

その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

棕櫚の主日〜エルサレム入城の記念日
 最後の過越しの祭りにあたって、今日がイエス様がロバの子に乗ってエルサレムへの入城を果たされた日になります。この日曜日を「棕櫚の主日」と呼んでいます。この日から金曜日の日没までを受難週とも言い、メシア預言の多くが成就し、多くの珠玉の御言葉が語られた日々です。

 さて棕櫚の主日の前日になりますが、土曜日イエス様はベタニヤに到着され、元ライ病人シモンの家に泊られました。そこにマルタやマリアとラザロももてなしに訪れていました。そこで葬りの備えともいうべき300デナリの高価な香油がマリアによってイエスに注がれました。多分ユダであったでしょうが、「貧しい人に施せたのに」と憤慨しました。
 このベタニアは神殿からオリーブ山越えで2マイル、約3キロ余りの所にあり、過ぎ越しの都詣でをするのに小一時間という最適な地でした。そのため蘇ったラザロを見に、大勢のユダヤ人が都から来るのにも好都合でした。ラザロを機に、「大勢のユダヤ人がイエスを信じるようになった」とヨハネ12章11節にあります。このままでは自分たちの地位も危ないと、祭司長たちは焦りに焦っていたはずです。人が世にも恐ろしいことをする最大の理由は、ただ自分を守ろうとしただけの理由であることが多いのです。
 棕櫚の主日、日曜日の朝がやって来ました。メシアはろばの子に乗ってエルサレムに入城(イザヤ62:11、ゼカリヤ9:9)すること、月曜日には宮清め(イザヤ56:7、エレミヤ7:11)などの預言の成就がありました。しかしそれよりも、イエス様の遺言とでも言うべき多くのお話、また弟子たちの洗足、いちじくの木の呪い、聖餐、特に十字架の経緯などが重要なことは言うまでもありません。〜途中、省略〜

 最後になりますが、イエス様が十字架にお架かりになったのは、金曜日の9時から15時です。この時間帯は、過ぎ越しの子羊を屠る時間帯です。過ぎ越しのための子羊は苦しませずに、一気に屠りますが、イエス様の十字架は逆に、できるだけ長時間、死の苦しみを長引かせるためのものでした。私たち全人類の罪を贖うのに、神の御子イエスお一人では不足でしょうか。いいえ、とんでもないお釣りが来る、過分なものでした。神は宇宙を創り、地球を造り、あらゆる命を造られ、最後に人間を造られました。その神が罪の身代わりとなって下さったのですから、その贖いは全人類を贖っても贖い不足ということは全くありません。なんという愛でしょうか。この神を私たちは父と呼び、父は私たち信じる者を子としてくださっているのです。
 
 この一週間は先にお配りしたような「聖書プラン」で御言葉に専念されると、復活祭での恵みがさらに豊かなものとなると思います。御言葉とともに祈り、復活祭をお迎えしましょう。

2021年3月21日 (日)

世に打ち勝つ信仰

Ⅰヨハネ 5章4節  新改訳2017

神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

今年の年間主題であるこの「世に打ち勝つ信仰」は、単純に「ああ、私たちの(カリスマ)信仰が世に対して勝利を取るのだ」と喜んでいいものではない。この御言葉には教会員が襟を正し、自らに問いかけねばならないという根本問題がある。

 それはこの章の1節にある「イエス・キリストがキリストであると信じるものはみな、神から生まれた」と「生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者を愛します」にすべて言い表されている。前者は信仰は神より来ていることを現し、恩寵を表す。これは他の多くの聖書箇所(マタイ11:27、使徒13:48など)から裏付けられることである。信仰は人の力で得たものでは無く、実に神が私たちにあわれみをもって、ご自分を現されたことにある。だから誰も自分の信仰を誇ることはできないのだ。

 後者はその神から生まれた者は、世に勝つ愛、特に世に勝る兄弟愛を共有すると述べている。主イエスや使徒たちが特に心配したのは、教会内の分裂、分派である。これは実に教会草創期から常に問題でもあった。聖霊のバプテスマを受けていない肉のクリスチャンたちと、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンたちの、信仰違いである。これによって教会内のあらゆる問題引き起こされることは、ごく初期の内に周知されていたし、イエス・キリストは初めからその警告を「互いに愛し合いなさい」と言う最高度の戒めを己を信じる者すべてに、与えていたのである。

 実際、「木はその実によって知られる=A tree is known by its fruit」という諺があるように、先ず教会の交わりそのものが聖化され、神の臨在と愛で満たされていなければならない。例えばどんなに偉大な説教者が立派で高尚な教えを垂れても、その説教者の家庭が離婚騒動や兄弟間に争いが絶えないのであれば、誰もその言説を真にを受けようとはしないであろう。それゆえ、教会の兄弟姉妹が肉親の兄弟姉妹以上に、神の愛によって互いに愛し合い(ヨハネ13:34、ロマ12:10、1ペテロ1:22、1ヨハネ4:7)、その実を実らせていること、これが聖書の主要な教えであって、4節で言っている<世に打ち勝つ>とはまさにこのことを指していると私は思う。

「世に打ち勝つ」とは弟子たちにもみられた「誰が一番偉いか」や、互いの間に世の人と同じ妬みや、自分の座を奪われないための相手を排除したり無視すること、また教会への陰口、党派心など、これら一切をなくすことである。それはまさに世の悪霊たちによるに御体への挑戦に打ち勝つことである。この戦いは聖なる戦いであって、世に福音を語り、伝道する以前の内部の問題である。私たちが主の愛によりすがり、教会に、まさに持ち込まれようとしているそのような人間的な感情や、それらを用いてくる悪霊に対し戦うならば、必ず打ち勝ち、勝利することの約束の言葉がこの御言葉なのだ。

2021年3月14日 (日)

あなたが願うとおりに

マタイ 15章28節   2017新改訳 

そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

 三日前にちょうど十年を迎えた大きな過去がありました。報道では、今になって次々と明るみに出される生々しい記憶があり、亡くなった人を悼み続けられています。しかし亡くなった人は、生きている人をその喪失感に囚われて生きてほしいと思っているのではなく、せっかくの命を前を向き、よりよく生きてほしいと願っておられるはずだと私は思っています。

 前を向き、よりよく生きるという点で、話は全く異なりますが、私には反省すべき点があります。2003年1月に神に触れられ、数ヶ月後にはっきりと聖霊の満たしを受けた、あの感動と熱意が戻って来ないのです。マンネリズムではありませんが、現状で私は到底満足できないのです。神が私に触れてくださった、召してくださったのは、その後間もなく与えられた使命のためでした。
 大上段にビジョンを申し上げますが、私の使命はこの国、一億二千万人の救い、エクソダス(リバイバル)にあります。そのために私は召されて立っています。それはまさに緒についたばかりで、あって、18年前の事を過去の出来事にすることはできません。

 さて聖書に話を戻しますが、イエス様はガリラヤまでやって来たパリサイ人や律法学者たちに疲れておられました。それで隣国の今でいうレバノンまで、人を避けて休養しに来ておられたのです。それをどこから聞きつけたのか、このギリシャ人にしてシドン育ちのカナン人の女、猛然とアタックを開始し始めました。この必死さはどうでしょう。

 彼女はイエス様が来られた話を聞きつけるや、この時とばかりに駆けつけ、弟子たちの制止にあってもなりふり構わず叫び続けたのです。「ダビデの子よ、あわれんでくださーい」と。弟子たちは馴れていたはずですが、ここが外国であったことに困惑したことでしょう。外国で騒ぎは対処が難しくなりがちです。おそらくそういうわけで、イエス様を休ませようとする弟子たちを強行突破した女は、次の拒まれるイエス様の三重の壁・・・1に無視、2に対象外、3に犬呼ばわりされてまでの蔑みに「パン屑は」の知恵を発揮し、ついに娘の癒しをゲットしました。
 しかし娘が悪霊から解放されることもですが、途端にカナン人の女はイエス様から「女の方」と持ち上げられ、「あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」とイエス様が褒められた二人の中でのベストの賞賛を与えられました。

 ここまで聞くと、イエス様の冷たい態度は単純な外国人差別ではなく、困難にあって女の信仰を引き上げ、また弟子たちに「信仰とはこのようなもの」と教えるためであったことがわかります。このカナン人の女の熱心さ、信仰を持ち続けて、私は使命を全うしなければなりません。今はその思いを心に熱くたぎらせながら願い、祈り続け、時が来たならば、そんなに遠い先でもなさそうですが、神に聞き従っての使命を果たさなければなりません。これが私の願いです。

2021年3月 7日 (日)

私を信じる者

ヨハネ 14章12節    2017新改訳

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです

 先週のスネルゴイキャンプがオンラインで語られた要旨を私なりの理解でお伝えします。
 先ず三日間、秋元牧師は出エジプト34:10「わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである」から語られました。」。しかし続けて「私たちは未だそのようなわざを見ていない。再臨のリバイバルが始まっているので、これから見る」と語られました。
 出エジプトとともに引用されたヨハネ14:12の「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きいなわざを行います」、及びエペソ1:19の「神の大能の働きによって、私たち信じる者に働く神の優れた力が、どれほど偉大なものであるかを知ることができるように」も取り上げられ、この両箇所に共通委する<信じる者>が今回のpointであると私は感じました。
 なぜなら、「自分が何にもできない人間であること」を神は幾度も(秋元牧師に)教えてくださった。弱さを知って、ただ主のみ言葉だけに頼り、信じ、従い、信頼したので、神は自分に奇跡を現してくださった。それゆえ今弱くされている自分を通し、これから<恐るべきこと>が起こって行くという趣旨ではなかったと推察されたのです。

 これは私自身も度々語っております、「人は自分を捨てることはできないが、神から与えられた試練によって自分に絶望し、その結果神に自分を捧げることができるようなる」と、かなり似たような趣旨だと思います。付け加えて秋元牧師は、この御言葉に従う際に、疑いや恐れ、不安が即やって来ることが多いのだが、それは不信仰から来ているので、対処するようにとも付け加えられた。恐らく、「恐るべきことなんて起こらない」という不信仰を縛って追い出し、信仰的な土台に立つように、その対応のことを言われたのではないだろうか。

 <不安や恐れに対処する>ことは、ヨシュアとカレブの引用においても明らかだ。偵察してきた事実…「乳と蜜の流れる地」「ネフィリムの末裔巨人アナク人」では皆相違は無かったが、その対応は他の十人とまったく異なるものだった。「神と共にあるので恐れることなく占領しよう」と。しかし他の十人や多くの長老たちにとって、その常識的な判断、「それはむざむざ殺されに行く」によって、危うく二人は殺されそうになったのである。結果は逆転し、二人以外のすべてのイスラエル人は生きて約束の地に入ることはかなわなかった。このことは信仰によって立つ者だけが約束の地に入る例であって、私たちもそのように、見たことや常識にとらわれるのでなく、どんな非常識なことであろうと、不安や恐れが入って来ようと、神の約束を信じ、それに立ち続けなければならないことを示している。それは神の恐るべきわざを見る人生の歩みであり、神による永遠のいのちの輝きを放つ地上での証人としての人生である。

 

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