受難のメシア
✝ヨハネ 12章12~13節 新改訳2017
その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
棕櫚の主日〜エルサレム入城の記念日
最後の過越しの祭りにあたって、今日がイエス様がロバの子に乗ってエルサレムへの入城を果たされた日になります。この日曜日を「棕櫚の主日」と呼んでいます。この日から金曜日の日没までを受難週とも言い、メシア預言の多くが成就し、多くの珠玉の御言葉が語られた日々です。
さて棕櫚の主日の前日になりますが、土曜日イエス様はベタニヤに到着され、元ライ病人シモンの家に泊られました。そこにマルタやマリアとラザロももてなしに訪れていました。そこで葬りの備えともいうべき300デナリの高価な香油がマリアによってイエスに注がれました。多分ユダであったでしょうが、「貧しい人に施せたのに」と憤慨しました。
このベタニアは神殿からオリーブ山越えで2マイル、約3キロ余りの所にあり、過ぎ越しの都詣でをするのに小一時間という最適な地でした。そのため蘇ったラザロを見に、大勢のユダヤ人が都から来るのにも好都合でした。ラザロを機に、「大勢のユダヤ人がイエスを信じるようになった」とヨハネ12章11節にあります。このままでは自分たちの地位も危ないと、祭司長たちは焦りに焦っていたはずです。人が世にも恐ろしいことをする最大の理由は、ただ自分を守ろうとしただけの理由であることが多いのです。
棕櫚の主日、日曜日の朝がやって来ました。メシアはろばの子に乗ってエルサレムに入城(イザヤ62:11、ゼカリヤ9:9)すること、月曜日には宮清め(イザヤ56:7、エレミヤ7:11)などの預言の成就がありました。しかしそれよりも、イエス様の遺言とでも言うべき多くのお話、また弟子たちの洗足、いちじくの木の呪い、聖餐、特に十字架の経緯などが重要なことは言うまでもありません。〜途中、省略〜
最後になりますが、イエス様が十字架にお架かりになったのは、金曜日の9時から15時です。この時間帯は、過ぎ越しの子羊を屠る時間帯です。過ぎ越しのための子羊は苦しませずに、一気に屠りますが、イエス様の十字架は逆に、できるだけ長時間、死の苦しみを長引かせるためのものでした。私たち全人類の罪を贖うのに、神の御子イエスお一人では不足でしょうか。いいえ、とんでもないお釣りが来る、過分なものでした。神は宇宙を創り、地球を造り、あらゆる命を造られ、最後に人間を造られました。その神が罪の身代わりとなって下さったのですから、その贖いは全人類を贖っても贖い不足ということは全くありません。なんという愛でしょうか。この神を私たちは父と呼び、父は私たち信じる者を子としてくださっているのです。
この一週間は先にお配りしたような「聖書プラン」で御言葉に専念されると、復活祭での恵みがさらに豊かなものとなると思います。御言葉とともに祈り、復活祭をお迎えしましょう。
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