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2021年4月

2021年4月25日 (日)

主は最善-感謝-

✝Ⅰテサロニケ 5章18節   2017新改訳

すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 感謝についてのみ言葉については、いずれもパウロの言葉でエペソ5:18-20、テサロニケ5:16-18、コロサイ3:15-17の三カ所が重要だと思われます。これらの内容は、表現は多少異なっていても、実質ほとんど同じ内容「感謝の心」を語っています。
 先ず、霊的な面で聖霊やみ言葉の霊に満たされ、詩と賛美と霊の歌によって心からの賛美をし、歌うこと。次にその実践的な面で行いについて、「いつでも」「どこででも」「すべてのことについて」感謝し続けることだとしています。私たちが感謝の心を得るならば、その現れは上述の二面に現れていくとしています。
 それでは泉のように湧く感謝の心の源はどこにあるのでしょうか。それは天より下って注がれるものです。その土台は自分の真の姿~弱く罪深い本当の自分を知り、ただ滅ぶしかない自分が分かった時ではないでしょうか。こんなみじめで滅ぶしかない自分の為に、尊い方が十字架に架かってくださった・・・神の愛が分かるのです。感謝はキリストの十字架の愛が源なのです。

 人はこの神の愛に応えて行こうとし、この神の愛に自分を導いてくれた数々の自分のマイナスが、導いてくれたからこそ逆に宝物なのだと気付くのです。すると見方が一変します。自分の貧しい生い立ち、能力の無さ、劣った容姿、忌み嫌い、不幸な家庭の中で歩み、避け憎んで来たこれら数々のことが、真逆になって自分の宝物に思えて来る大転換を経験します。つまり感謝する心を持つとは、傷もしみも陰もいっさいなく、すべてが喜びに変えられ、光の子にされることなのです。

 例えば私が裕福な家に生まれ、能力に恵まれてたとしたら、必ず貧しい人や劣った能力の人を蔑すむか、または存在しないかのように無視する者になっていたはずです。もし私が容姿端麗であったら、きっと鼻もちならない高慢な人間になっていたことでしょう。仕事であのままエリートコースを歩んでいたら、砕かれて聖霊の恵みにあずかることもなく、献身したとしてもカリスマ派になってはいなかったはずです。
 人の痛みを分かち合うためには、知識だけでは困難です。自分自身が体験しなければ不可能です。心の病、障害を持つ人に対し、自分が身近に接し、共に痛んでいなければ、どうしてそのような人に寄り添っての牧会ができるでしょうか。このように今では経験したすべてのマイナスはプラスに、いいえ、私の宝物になりました。
 私はお勧めします。かつてマイナスに思えていたこれらが一つでも欠けていたら、私は今の私になっていません。ですからすべてを感謝します。神に感謝しましょう。私たちを選び、天へ救い出してくださった神の、計り知れない叡知と愛に。

2021年4月18日 (日)

神のあわれみ

ローマ 9章15節    新改訳2017

神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」

 つくづく私たち人間とは、自分中心の視点でしか、物事を捉えることはできないという限界を痛感する。例えば自分より良い人間、立派な友が居て、そのような良い友が救われず、自分のような人格的に劣る人間が救われるのはゆ神の不公平だと考えることなどである。
 誰が救われ、また誰が救われないかということは、人間が判断する事でなく、あくまで神が決められ、定められる事である。造られた陶器に過ぎないものが、造り手の陶器師に向かって、指図しているようなものである。私たちは神の被造物であり、その御心をそのなど人の目で見て憚らない。 (イスラエルで撮影のリス↓)

 私たち人間は神の御心を知らない。常に他と比べて、自分に良いものを求める。しかしその良いものが、自分にとって必ず良いもの、最善にPhoto_20210425021301 なることではないことがわからない。眉目秀麗であることが慢心に陥り、才色兼備であることが自分の力を過信したり、人を侮ることになりかねない。
神は人を造られたが故に、そのすべてをご存知であり、最善をご存知である。この方が、私たちを、私たちが世に生まれるはるか以前に愛を持って創造してくださった。ですから神を信じる者は神の子であり、一人一人形の違いがあっても、子として父が自分を最善に造って世に送り出してくださったことを感謝するのである。

 神にはえこひいきが存在しない。ただ値なき自分が、永遠の神からのあわれみを受け、子としてくださったことを、感謝と賛美で主を崇め、上からの喜びで満たされたい。あわれみによって私たちが神の子どもとされたのは、計り知れない神の知恵である。神の御心はかみのみぞ知る。

 私たちが皆、神の子どもであることは、神を信じる者同士はすべて、血肉に勝る真の兄弟姉妹であり、互いに愛し合うことからも明らかである。しかしそうでなく、兄弟を告発したり、妬んだりするならば、その人は偽兄弟である。裁くことは神がしてくださるが、私たちとしては取り成しをして祈るのみである

2021年4月11日 (日)

聖霊のバプテスマ

 ✝ 使徒 1章8節     2017新約聖書

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 聖霊のバプテスマほど、キリスト教誕生当初から多くの誤解を受けてきたものはないかも知れません。この定義としては、聖霊の満たしの最初の現象を聖霊のバプテスマと申しますが、満たしであって、一度満たされたら永久不滅のものではありません。満たされ続ける必要があるのです。
 その例ですが、アブラハムは神から「預言者」とされていますので、もちろん聖霊の満たしは受けていたことでしょう。しかしその彼も妻を妹と称してゲゼル王に召し出されても、抵抗をした跡が見られません。また、モーセの姉や兄のミリアムやアロンも預言者でしたが、あるとき、自分達も弟のように用いられても良いのではないかと文句を言った時、手が雪のように真っ白になりました。この事からも、たとえ預言者ではあっても、常に神の霊を受け、神の言葉を取り次いでいたとは言えないことは明らかです。聖霊のバプテスマを受けたとしても、私たちは絶えず聖霊を求め、満たされ続けていく必要があるのです。Photo_20210419124401

聖霊のバプテスマの現われとして、癒やしや預言などの聖霊の賜物も、さらに多くの誤解を招いて来ました。預言はギリシャ語で「プロフェーティヤ」と言い、神の言葉を全面的に預かって話すという神からの賜物ですが、これらは神の使命を果たすための一時的な付与に過ぎません。間違っても自分は神からの特別な霊能者だと誤解してはいけません。ただひたすら謙遜に、取るに足らない者として神に栄光を帰し、神を褒め称えるだけです。すべての賜物は神から来ていますので、御心ならば誰にでもそれは与えられるものです。およそ聖霊の満たしを受ける人とは、神の愛を分かち合うにふさわしい、愛に満ちた人です。同時にまことに弱く小さな人々に仕える謙遜な人でもあります。

 また明らかに終末の時代に向けて歩を進めている時代となっていますが、これからますますその加速度は強まる事でしょう。確かにヨエルの預言の後半部分が顕著になって来ることと思われます。やがて来る主との再会を見据えて、血肉の命のある今、さらに熱心に祈り、霊に燃えて聖霊の注ぎを求めて参りましょう。私たちの希望は、「よくやった、忠実な僕よ」と主のお褒めの言葉に預かる事です。

2021年4月 4日 (日)

ここにはおられません

✝マタイ 28章6節   新改訳2017 

ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。

 二千年前のこの日、主はよみがえられました。最初にマリア達が墓地で聞いた、天使の言葉を英語では次の文になります。
 「He is not here; for he is risen, as He said. 」
 英語の良さはこういう所にあります。自動詞riseと他動詞raiseの違いです。これより前、死んで四日目によみがえったラザロは、raiseです。イエス様の復活はriseの過去形risenです。つまりイエス様は誰の助けも借りず、ただご自分の意思でよみがえられたのです。それを日本語では『よみがえられた』という、曖昧な表現になり、主の栄光のわざを薄めてしまっています。

 本題ですが、なぜ蘇られなければならなかったのか?と言うことについて、一般的には「キリストが死に打ち勝ってくださった」という理解でしょう。しかしこれは単に打ち勝っただけでなく、もし復活がなかりせば、キリスト教は觀念的、哲学的なものであり、虚しいのです。それはどういうことでしょうか。
 イエス様の復活が勝利であったのはあのラザロのような、再び滅ぶような体ではなく、【御霊のからだ】というからだであったとことです。このからだについて福音書に多くの証言が残されています。突如弟子たちの集団の只中に現れる=物体の通過ができたり、瞬間移動ができ、実際にさわる実体があり、魚すら食べることができました。しかもその御霊のからだは永遠で滅びません。さらには神様と常時に即座に交れるはずです。ですからもはや預言などの賜物は不要になるのです。罪はもちろん、憂いや悲しみ、涙はもはやありません。

 この素晴らしい御霊からだの初穂として、イエス様が復活されたのです。これこそ滅びという死に対する勝利であり、全ての命に優って神の究極的な勝利です。考えても見てください。天のエルサレムはこうした全面的な勝利の締めくくりに地上に降り立ちます。
 
 興味深いことに、今回は「エマオへの途上」に目を開かれさせられました。クレオパたちの道中、イエス様が道連れのように現れても、弟子たちにはそれがイエス様であることがわかりません。なぜでしょうか。この弟子たちはイエス様の目的や使命について、理解していなかったからです。
 彼らはイスラエルを再興するメシア観に囚われ続けていたのです。十字架の意味が分からない者は、たとえキリストを眼前にしても、キリストであることが分からないという実例です。道々、イエス様に諄々と悟され、宿でパンを裂かれて初めて気づいたのです。

 このように、現在でもなお、真のキリストを求めない人には、神はご自身を顕されない現実があります。十字架の恵みは全ての人のものですが、罪がわかり、真に悔い改める人々のものであって、その門は未だに狭き門です。しかし患難時代が来たならば、話は別なものとなるでしょう。

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