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2021年4月 4日 (日)

ここにはおられません

✝マタイ 28章6節   新改訳2017 

ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。

 二千年前のこの日、主はよみがえられました。最初にマリア達が墓地で聞いた、天使の言葉を英語では次の文になります。
 「He is not here; for he is risen, as He said. 」
 英語の良さはこういう所にあります。自動詞riseと他動詞raiseの違いです。これより前、死んで四日目によみがえったラザロは、raiseです。イエス様の復活はriseの過去形risenです。つまりイエス様は誰の助けも借りず、ただご自分の意思でよみがえられたのです。それを日本語では『よみがえられた』という、曖昧な表現になり、主の栄光のわざを薄めてしまっています。

 本題ですが、なぜ蘇られなければならなかったのか?と言うことについて、一般的には「キリストが死に打ち勝ってくださった」という理解でしょう。しかしこれは単に打ち勝っただけでなく、もし復活がなかりせば、キリスト教は觀念的、哲学的なものであり、虚しいのです。それはどういうことでしょうか。
 イエス様の復活が勝利であったのはあのラザロのような、再び滅ぶような体ではなく、【御霊のからだ】というからだであったとことです。このからだについて福音書に多くの証言が残されています。突如弟子たちの集団の只中に現れる=物体の通過ができたり、瞬間移動ができ、実際にさわる実体があり、魚すら食べることができました。しかもその御霊のからだは永遠で滅びません。さらには神様と常時に即座に交れるはずです。ですからもはや預言などの賜物は不要になるのです。罪はもちろん、憂いや悲しみ、涙はもはやありません。

 この素晴らしい御霊からだの初穂として、イエス様が復活されたのです。これこそ滅びという死に対する勝利であり、全ての命に優って神の究極的な勝利です。考えても見てください。天のエルサレムはこうした全面的な勝利の締めくくりに地上に降り立ちます。
 
 興味深いことに、今回は「エマオへの途上」に目を開かれさせられました。クレオパたちの道中、イエス様が道連れのように現れても、弟子たちにはそれがイエス様であることがわかりません。なぜでしょうか。この弟子たちはイエス様の目的や使命について、理解していなかったからです。
 彼らはイスラエルを再興するメシア観に囚われ続けていたのです。十字架の意味が分からない者は、たとえキリストを眼前にしても、キリストであることが分からないという実例です。道々、イエス様に諄々と悟され、宿でパンを裂かれて初めて気づいたのです。

 このように、現在でもなお、真のキリストを求めない人には、神はご自身を顕されない現実があります。十字架の恵みは全ての人のものですが、罪がわかり、真に悔い改める人々のものであって、その門は未だに狭き門です。しかし患難時代が来たならば、話は別なものとなるでしょう。

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