神のあわれみ
✝ローマ 9章15節 新改訳2017
神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」
つくづく私たち人間とは、自分中心の視点でしか、物事を捉えることはできないという限界を痛感する。例えば自分より良い人間、立派な友が居て、そのような良い友が救われず、自分のような人格的に劣る人間が救われるのはゆ神の不公平だと考えることなどである。
誰が救われ、また誰が救われないかということは、人間が判断する事でなく、あくまで神が決められ、定められる事である。造られた陶器に過ぎないものが、造り手の陶器師に向かって、指図しているようなものである。私たちは神の被造物であり、その御心をそのなど人の目で見て憚らない。 (イスラエルで撮影のリス↓)
私たち人間は神の御心を知らない。常に他と比べて、自分に良いものを求める。しかしその良いものが、自分にとって必ず良いもの、最善に なることではないことがわからない。眉目秀麗であることが慢心に陥り、才色兼備であることが自分の力を過信したり、人を侮ることになりかねない。
神は人を造られたが故に、そのすべてをご存知であり、最善をご存知である。この方が、私たちを、私たちが世に生まれるはるか以前に愛を持って創造してくださった。ですから神を信じる者は神の子であり、一人一人形の違いがあっても、子として父が自分を最善に造って世に送り出してくださったことを感謝するのである。
神にはえこひいきが存在しない。ただ値なき自分が、永遠の神からのあわれみを受け、子としてくださったことを、感謝と賛美で主を崇め、上からの喜びで満たされたい。あわれみによって私たちが神の子どもとされたのは、計り知れない神の知恵である。神の御心はかみのみぞ知る。
私たちが皆、神の子どもであることは、神を信じる者同士はすべて、血肉に勝る真の兄弟姉妹であり、互いに愛し合うことからも明らかである。しかしそうでなく、兄弟を告発したり、妬んだりするならば、その人は偽兄弟である。裁くことは神がしてくださるが、私たちとしては取り成しをして祈るのみである
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