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2021年5月

2021年5月30日 (日)

神様のお人柄3-御子イエスを通して

ピリピ 2章6~7節   新改訳2017

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。

 本日は神様のお人柄を知るのに、最も適した神=主イエス様を学ぼうとしています。何しろこのお方は神であるのに、その高い御位を捨てられ卑しい人の姿になり、しもべとなってくださった(ピリピ2章6-8節)神であり、その深い御思いは人間の知恵では到底想像すらできないのです。

 未信者の人に私たちが神様を紹介するとしたら、どんな話になるでしょうか? 神聖にして義なるお方、創造主・・・などと通り一遍のことを言っても、おそらく伝わりにくいことでしょう。しかし私たちの神様は、私たちを子としてくださった神です。ですから子があたかも父を語るように、もっと血の通った言葉で語り伝えたた方が良いのではないでしょうか。私たちは養子とはいえ「子」にしていただき、ふだんから父なる神と親しく交わっているからです。ですから時折エピソードを交えながら紹介できるような、そんな風に父なる神をお伝えしたいものです。

 イエス様はこんなお方~地上におられる間、一見私たち人間とおなじように「怒り、悲しみ、嘆き、憤りを覚え、涙を流される」ということをされました。パリサイ人が安息日に手の萎えた人を会堂に連れ来て、イエス様が癒やすかどうかを試したりしましたが、そのパリサイ人のかたくなさをイエス様は怒り、嘆き、悲しまれました。また愛するラザロの死とよみがえりに際しては「霊に憤りを覚え、心を騒がせ~中略~涙まで流された」のです。イエス様は、そういうお方でした。

 イエス様については福音書という手引き書がありますので、公にも上述のことがわかります。しかしこのように感情を表された場合でも、それは人間の持つ感情とは全く異なっていたことに注意しなければなりません。人間の感情とは〜自分がないがしろにされたり、思う通りにならなかったり、妬んだりする~のですが、イエス様の感情はまったく別ものです。
 神がこれらの感情を表される時、常に人間への高い愛に基づいてのものです。そこに人間のような自己愛、自我はないのです。すべて人間への愛の発露であって、神の御性質そのものだからです。救いたい魂と霊がそこにあって、そのための神のみ心があって、イエス様は怒り、悲しみ、嘆かれたのです。一言で申せば、<愛>が感情的な表現の源であることがわかるのです。

 なぜ神様のお人柄を語ろうとするのでしょうか。それはイエス様を通し、神の計画とその人柄を知って、ただ聞き従おうとするだけでなく、私たちがみ心を進んで行おうとすること、神はそれを非常に喜んでくださるからです。受け身的でなく、私たちが能動的に、自ら進んでただ神のみ心のみを行おうとするなら、天の幾千万の天使と御座に連なる一切が歓声を上げてくださいます。私心を捨てみ心を行おうとするなら、神は私たちをあやまたずに護り導いてくださいます。それは子である私たちの特権であり、絶えず父と交わり、お人柄がわかっているからこその、特権です。

2021年5月23日 (日)

神様のお人2-御霊の人-

ガラテヤ 6章1節   2017新改訳

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。


ペンテコステは一般には教会ができた日として祝われています。しかしこの日はクリスマスや復活祭よりも祝われるべき日だと思えます。なぜならメシアが世に来た最終目的が、ペンテコステにあると見ているからです。十字架によって罪なき者とすることにより、その人に聖い御霊様が臨在の主としてお住みになれるようになり、かつその満たしによってみこころを行う者となるからです。聖霊の満たし、聖霊のバプテスマが聖書で繰り返されて語られる「証印」という、天への確信を与えうるものであるのはこのためです。

 繰り返しますが本日の聖書箇所、「御霊の人」とは「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証(エペソ1:14)」です。ハッキリ申し上げて<御霊、あるいは聖霊>の人とは、その満たし、聖霊のバプテスマを体験している人以外にはわからないものです。その真の体験もなく、情報だけで論じている人が、多くの混乱を実際に招いているのです。それはちょうど真札を知らない人が偽札を見抜くことがないのと同じです。

 また私たちがどんなに神のみ心を行いたいと願っても、<聖霊だけが神のみ心のすべてを知っている(1コリント2:11)>なのですから、まず聖霊の満たし、バプテスマを受けていくことが先決なのです。しかしこれは人の思いや働きによるものではなく、一切が神のみ心によるのですから、どんなに熱心に祈り求めたとしても、ことは神の時によるしかありません。自分が神の御手にあり、完全な所属となるようどこまでも委ね、最善のタイミングで注がれると信じましょう。忍耐と信仰が試されるのです。

 聖霊様を体験するなら、聖潔と呼ばれるきよめや聖霊の賜物と呼ばれる異言、預言、癒やしなどの賜物は、実は単に聖霊の力の現れに過ぎないことを知ります。神は御心に従って必要な時に、必要な人に与えられるのであって、「これこれが無ければいけない」と人に過ぎないものがあれこれ注文をつける類いのものではないはずです。それはちょうど、我が子をお店へのお使いに行かせる時、お金を持たせず、また何を買って良いのかわからないまま行かせる事がないのと同じです。

 聖霊様を体験するなら、その体験のシチュエーションや多少の違いがあっても、人々は同じようなコアな体験を持ちます。それは神の愛です。神の愛を知って、私たちは根本から変えられて行くからです。自らの力ではなく、新しい人になるのです。自分をすべて神に捧げてしもべとなること、そして神のみ心を行ってその愛に応えて行きたいこと、など激しい渇望をもって望むようになります。本日このペンテコステの日に当たり、この聖霊様についてさらに祈り求めて行きましょう。

2021年5月16日 (日)

神様のお人柄1-ねたむ-

コリントⅡ 5章18-19節   新改訳2017

万軍の【主】はこう言われる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。

 今回のテーマに「神様のお人柄」という言葉を使いました。人格という言葉があるように、神格と言いたいところでした。ところが神格という言葉には別の意味がありますので、このような表現をしています。メッセージは数回、この「神様のお人柄」シリーズを続けます。今日は神様が「ねたむ」というテーマです。

 「ねたむ」と言う言葉はあまり良い意味では使われません。ところが聖書では「ねたむ」という動詞と、「ねたみ」という名詞形とは、使い分けられているようです。単に「ねたみ」と言う言葉なら、一般的な肉の心の言葉として扱われています。ですから神様が「ねたむ」と聞いて、えーっ、そんなことがあるだろうか、と思われるのは当然です。しかし神が「ねたむ」と語られる時、そのような意味ではなく、本来の正統な関係を拒む子に対して、愛の表現であるとさえ言えるのです。真の父である自分との関係をないがしろにする、我が子への熱い想いです。

 「ねたむ」がどうしてそうなるのでしょうか。本日は神の愛を「ねたむ」ということばの意味を問うことによって見ていきたいと思います。先ず子と父の関係で考えてみましょう。父からたっぷり愛されている子が、隣家の子どもの父をうらやみ、「僕の父親には、あんな人だったら良いのに」と思わず言ったとします。これを父は平静な気持ちで聞くことができるでしょうか。当然息子に対してがっかりするか、「親の気持ちをあまりにも無視して」と怒るのではないでしょうか。もし、そのように言われて、何の感情も湧かないとすれば、それは関係のないお互いでしかありません。
 ですからその父の「ねたむ」感情は、不正なものであるかというと決してそんなことでない、正しいのです。私たちの父は天地万物を創造された方であり、私たちはひどい放蕩息子であるにもかかわらず、十字架に架かってまで私たちを愛してくださった方です。もし仮に、そのようなねたむ気持ちが湧かない父がいるとすれば、それは真の父ではないと言えます。ですから神が私たちを「ねたむ」という表現は、血肉の父に優っての真の父との関係において、まことに正しく、希望の持てる深い愛の意味になります。

 神様は誰もが肯定するように、愛なるお方です。しかしその愛を表すのに「ねたむ」ほどに私たちを愛してくださるという、神の愛を表すことばには深い意味があります。あるべき関係において、通じない愛の口惜しさを込めて、神は私たちをねたんでくださるのです。ねたんでくださる私たちは、本当に祝福されているのです。

2021年5月 9日 (日)

福音

コリントⅡ5章18-19節  2017新改訳  

これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

 福音とは「良い知らせ(good news)」と言う意味です。どういう良い知らせかと言えば、私たちのどんなにがんばっても無理だった天国入国が、ただイエス・キリストを信じるだけでOKになったという知らせです。もう少し詳しく言えば、私たちの罪の身代わりに、神の子キリストを十字架に架けられたので、これを信じさえすれば罪が帳消しにされる、つまりすべて赦されるので、罪を犯さなかった聖なる者となって天国へ入れるという驚くべきものです。イエス・キリストの十字架はまさに人類の歴史を二分する驚天動地出来事であって、実際西暦ではBCとADとに、つまりキリストの誕生以前と以後で、歴史を二分しています。

 今一度強調したいと思います。霊肉共に滅ぶしかなかった私たちでしたが、福音によってどれほどの恵みを、天地がひっくり返るほどでしたが、受けたのかを。私たちは今2021年を生きていますが、キリスト以前の二千年前、つまり四千年前に、アブラハムによって神に聞き従う信仰が始まりました。そして三千年前にモーセによって、「十戒」を頂点とする律法がイスラエルの民に与えられ、この律法を守ることによってイスラエルの民は神の国に入れるはずでした。しかしイスラエルの民はキリストまでの千年にわたって、結局、天国に到達することができませんでした。つまり、イスラエルの民は、人の努力で天国へ行くことはできないお手本となったのでした。
 ではこのアブラハムの子孫、イスラエルの二千年間は無駄な時間だったのでしょうか。いえ、この民の時代があったからこそ福音の必然性が証明されたのです。人は福音無しには天国には行けない、つまり救われないのです。

 同時に福音はいわゆる「御利益信仰」を峻別し、拒否します。神の命をもって買い取られた者、すなわち十字架を信じた者の命は、すでに神のものです。その見返りははるかに莫大なもので、永遠のいのちが与えられているのです。この永遠のいのちをいつまでも実感できない人は、その状態のままでは、自分自身が人生の主人であるという御利益信仰者、または肉のクリスチャンであることを明らかにしています。神によって永遠のいのちを得た者は、すでにこの世の価値観から離れ、心と魂が一新された、新しく生まれた者となっているのです。まさに福音は生きて働く神の力であり、ハレルヤ!これを聞いて信じる者を一変させる力あるものです。

2021年5月 2日 (日)

死に打ち勝つ勝利

コリントⅠ 15章54節   2017新改訳

そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」

 イエス・キリストの十字架は、私たちの罪を赦すためでした。その罪への勝利として復活があります。但しその復活は単なるRisen(自分自身でよみがえり)であり、それも単なる生き返ったよみがえりではなく、〈御霊のからだ〉でのよみがえりと言う根本的な異なるものでした。

 御霊のからだ、これは驚天動地とも言えるもので、朽ちない、つまり永遠の天でのからだの初穂であったのです。天国製のもので、罪の無い存在だけがまとえる天国人の姿です。
 今一度この復活されたイエス様の〈御霊のからだ〉を見ていきましょう。これはあらゆる点で、それまでのエリヤたちやラザロやヤイロの娘、ナインの女の息子のよみがえりとは異なっていました。彼らはよみがえりましたが、時が来た時、また再び死んだのです。しかし〈御霊のからだ〉は単に二度と死なないだけでなく、およそ人類には理解も想像もできない多くの不思議を伴っていました。テレポーテーション(瞬時にどんな遠隔地にも移動)でき、トンネル効果(物体が物体を通り抜ける)を実現し、その体に実際に触れる実体を持ち、あまつさえ食べることができました。
 このような「御霊のからだ」を常識のある人なら、到底信じることができません。おまけにイエス時代の五百人あまりの人々を除いて、この事実を証明する人物はいないのです。しかし聖書を信じるなら、聖書の中身であるこの〈御霊のからだ〉を信じなければなりません。なぜならイエス・キリストは自らに関する全ての預言を成就させましたし、この〈御霊のからだ〉については、五百人以上の証人を持って明らかにしているのです。なおかつ、今も人々に御霊が注がれ、御霊のバプテスマを受けた人々は実際に確信を持ってこれを信じることができます。

 神は御子を送られ、私たちを罪なき者としてくださいましたが、それは〈御霊のからだ〉を通して永遠に天の国で子として交わらせるためなのです。つまり御霊のからだこそ、神の恵みの最終形なのです。
 聖書を神の言葉として信じるかどうかより、聖霊の体験と初穂としてのイエス・キリストと同じ姿になる聖書の約束によって、今や私たちはこのことの確信を持っているのです。
 聖霊のバプテスマを受けるまでは、確信を持てませんでした。体験がないことには、神をリアルに信じているとは言えませんでした。しかし聖霊のバプテスマを受けてからはまったく一変しました。聖書が神の言葉であり、真実であると固く信じるようになりました。この御霊のからだについても、私はまったく信じることができます。神を信じる者にとって、死は滅ぼされ、御霊のからだに変えられて行くことを完全に信じることができます。私たちは変えられるのです。ハレルヤ!

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