神様のお人柄3-御子イエスを通して
✝ピリピ 2章6~7節 新改訳2017
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
本日は神様のお人柄を知るのに、最も適した神=主イエス様を学ぼうとしています。何しろこのお方は神であるのに、その高い御位を捨てられ卑しい人の姿になり、しもべとなってくださった(ピリピ2章6-8節)神であり、その深い御思いは人間の知恵では到底想像すらできないのです。
未信者の人に私たちが神様を紹介するとしたら、どんな話になるでしょうか? 神聖にして義なるお方、創造主・・・などと通り一遍のことを言っても、おそらく伝わりにくいことでしょう。しかし私たちの神様は、私たちを子としてくださった神です。ですから子があたかも父を語るように、もっと血の通った言葉で語り伝えたた方が良いのではないでしょうか。私たちは養子とはいえ「子」にしていただき、ふだんから父なる神と親しく交わっているからです。ですから時折エピソードを交えながら紹介できるような、そんな風に父なる神をお伝えしたいものです。
イエス様はこんなお方~地上におられる間、一見私たち人間とおなじように「怒り、悲しみ、嘆き、憤りを覚え、涙を流される」ということをされました。パリサイ人が安息日に手の萎えた人を会堂に連れ来て、イエス様が癒やすかどうかを試したりしましたが、そのパリサイ人のかたくなさをイエス様は怒り、嘆き、悲しまれました。また愛するラザロの死とよみがえりに際しては「霊に憤りを覚え、心を騒がせ~中略~涙まで流された」のです。イエス様は、そういうお方でした。
イエス様については福音書という手引き書がありますので、公にも上述のことがわかります。しかしこのように感情を表された場合でも、それは人間の持つ感情とは全く異なっていたことに注意しなければなりません。人間の感情とは〜自分がないがしろにされたり、思う通りにならなかったり、妬んだりする~のですが、イエス様の感情はまったく別ものです。
神がこれらの感情を表される時、常に人間への高い愛に基づいてのものです。そこに人間のような自己愛、自我はないのです。すべて人間への愛の発露であって、神の御性質そのものだからです。救いたい魂と霊がそこにあって、そのための神のみ心があって、イエス様は怒り、悲しみ、嘆かれたのです。一言で申せば、<愛>が感情的な表現の源であることがわかるのです。
なぜ神様のお人柄を語ろうとするのでしょうか。それはイエス様を通し、神の計画とその人柄を知って、ただ聞き従おうとするだけでなく、私たちがみ心を進んで行おうとすること、神はそれを非常に喜んでくださるからです。受け身的でなく、私たちが能動的に、自ら進んでただ神のみ心のみを行おうとするなら、天の幾千万の天使と御座に連なる一切が歓声を上げてくださいます。私心を捨てみ心を行おうとするなら、神は私たちをあやまたずに護り導いてくださいます。それは子である私たちの特権であり、絶えず父と交わり、お人柄がわかっているからこその、特権です。
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