神様のお人柄1-ねたむ-
✝コリントⅡ 5章18-19節 新改訳2017
万軍の【主】はこう言われる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。
今回のテーマに「神様のお人柄」という言葉を使いました。人格という言葉があるように、神格と言いたいところでした。ところが神格という言葉には別の意味がありますので、このような表現をしています。メッセージは数回、この「神様のお人柄」シリーズを続けます。今日は神様が「ねたむ」というテーマです。
「ねたむ」と言う言葉はあまり良い意味では使われません。ところが聖書では「ねたむ」という動詞と、「ねたみ」という名詞形とは、使い分けられているようです。単に「ねたみ」と言う言葉なら、一般的な肉の心の言葉として扱われています。ですから神様が「ねたむ」と聞いて、えーっ、そんなことがあるだろうか、と思われるのは当然です。しかし神が「ねたむ」と語られる時、そのような意味ではなく、本来の正統な関係を拒む子に対して、愛の表現であるとさえ言えるのです。真の父である自分との関係をないがしろにする、我が子への熱い想いです。
「ねたむ」がどうしてそうなるのでしょうか。本日は神の愛を「ねたむ」ということばの意味を問うことによって見ていきたいと思います。先ず子と父の関係で考えてみましょう。父からたっぷり愛されている子が、隣家の子どもの父をうらやみ、「僕の父親には、あんな人だったら良いのに」と思わず言ったとします。これを父は平静な気持ちで聞くことができるでしょうか。当然息子に対してがっかりするか、「親の気持ちをあまりにも無視して」と怒るのではないでしょうか。もし、そのように言われて、何の感情も湧かないとすれば、それは関係のないお互いでしかありません。
ですからその父の「ねたむ」感情は、不正なものであるかというと決してそんなことでない、正しいのです。私たちの父は天地万物を創造された方であり、私たちはひどい放蕩息子であるにもかかわらず、十字架に架かってまで私たちを愛してくださった方です。もし仮に、そのようなねたむ気持ちが湧かない父がいるとすれば、それは真の父ではないと言えます。ですから神が私たちを「ねたむ」という表現は、血肉の父に優っての真の父との関係において、まことに正しく、希望の持てる深い愛の意味になります。
神様は誰もが肯定するように、愛なるお方です。しかしその愛を表すのに「ねたむ」ほどに私たちを愛してくださるという、神の愛を表すことばには深い意味があります。あるべき関係において、通じない愛の口惜しさを込めて、神は私たちをねたんでくださるのです。ねたんでくださる私たちは、本当に祝福されているのです。
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