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2021年6月

2021年6月27日 (日)

実生の木

ピリピ 2章10~11節   新改訳2017 

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

 善悪の基準とか、そこに至った動機は決して悪いものではなかったとしても、正々堂々とできず、はばかられる事柄に神に導きを祈る時、すばらしい神の助けがあった事を証しします。このことを通し私は神が信じる者を通し実際に居られ、働いてくださる神であることを証言します。

 私が今のマンションに越してきて7、8年は経つでしょうか、マンションの出入り口から数メートル離れた道路と住宅の境に、腰の高さほどの実生の木が生えていました。小さかったので何の木か当時はわかりませんでしたが、今では写真の通りの4、5mの高さがある、たぶんコナラでしょうか、立派な木に生長しました。

 これは小さいことかも知れませんが、最初はまったく土がない、アスファルトとコンクリートの間に、よくも生えることができたものだと感心していたのですが、ここまで大きくなると「困ったことだ、何とか今のうちに伐採しなければ」と思うようになりました。そこで「誰も何も手をこまねいて、ここまでになったのだから」と私が何とかしなければと思うようになりました。 

 問題はその方法です。私道に生えているのですから、市に依頼するのが筋なのか、あるいは塀のお家の了解を取るべきなのかわかりません。いずれにしても面倒です。そこで目立つ伐採では無く、ネットで調べ、根に近い方に小さな穴を開け、そこに除草剤を流して、徐々に枯らす方法なら、誰にも不審に思われないでできると思ったのです。そしてすぐに決行することに決めました。

 しかしどうにもやり方が正しくないように思えたのですが、妻にも誰にも相談できず、決めたその夜、この木曜日でしたが、神様に祈ったのです。するといつもにない、ある示しが来ました。それは「あなたがするのでなく、私に任せなさい。私なら最善にこれを解決できるのだから」という内容でした。経験上、私が思いつかないことで、これは神から来たと思いましたので、「そうだ、そうだった。これで私は楽になった」と委ねることにしたのです。

 しかし試しはすぐに来ました。なんとその翌日、妻が珍しくホームセンターに行きたい言うのです。そして行きますと、私は「これは除草剤を買うチャンス」と昨夜の祈りも忘れてそのコーナーに行って、安い薬を探しました。三百円ぐらいあるにはあったのですが、それさえも惜しんでいると、昨夜のことを思い出し、「これはまずい」と商品を棚に戻しました。

 さて一夜明けて昨日、つまり土曜日の朝になり、私が仕事を終えて帰ってみると、何とあの実生の木が根元で切り取られているのです。驚いて妻に聞くと、マンションの管理人と隣のご主人が話し合われ、切ることになり、伐採はたまたまマンションの庭の手入れに来ていた業者が行ったとのことでした。繰り返しますが、私があわや伐採しかけていたことなど、私以外には妻さえも、誰も知らないことです。そしてすでに数千日も放っておかれた伐採が、木曜日に祈り、金曜日に試され、土曜日にまったく当事者間で話し合われ、専門の業者によって伐採されたので。

皆さん、これは偶然でしょうか。私は偶然には思えません。小さな事かも知れませんが、信じる者の心を知られる神が行われたことです。神は生きておられ、これは「すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するため」なのです。

2021年6月20日 (日)

真の宗教、真の神

ヨハネ 7章28節   新改訳2017

イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。

 イエス様が宮で大声を上げ、「『わたしを遣わされた方は真実』だが、イスラエルのあなたがたは真実を受け入れようとしていない」と言われた言葉が私の胸に迫ります。今この日本の国でも、私たちクリスチャンは圧倒的少数に留まっていますが、それだけでなく、「真の神」を知るクリスチャンはさらに少ないことでしょう。しかしこの数は問題ではありません。主がエリヤに語られたように、この不信仰不信仰な世に対し、膝をかがめなかった残された者(1列19:18)でいることです。

 さてつい先だって、テニスの合間に、自分の親族にクリスチャンが多い方がおられて、その彼が「クリスチャンって、死を恐れないんだよな」と言いました。すかさず私は「クリスチャンにとって死は天国への凱旋式ですよ」と言ったのですが、彼は「死んだら皆同じ」と答えました。聞いていた人が「暗い話はもうよそう」で終わったのですが、確かに普通の人には死後の話は暗い話で、怖いことなのです。すべての人に避けられない、必ず来る現実を避け、備えないとは実に愚かな事です。

 人の命は、それが尽きるまでに霊・魂の存在を信じるかどうかを決めなければなりません。信じるならば霊の行き先は、信じた宗教に左右されます。ここで最大のポイントは真の宗教であるかどうかです。究極にして永遠の選択結果となります。そこで聖書、その天地万物の創造からイスラエル二千年とキリストによる全人類への福音二千年が、人類の歴史をどれほど先導し、今日の世界を築き上げてきたかは論を待ちません。キリスト教は世界最大の宗教であり、人類の歴史と道徳のスタンダードとなった宗教なのです。キリスト教の神こそ、真の神であることは明白です。

 このキリスト教の一切の土台は聖書です。聖書は原点において誤りなき神の言葉です。この他に誤りの無い聖典とか経典を知りません。神は人間のすべての罪を背負せて御子キリストを十字架に架け、そのことによって信じる者を罪無き者とされました。驚くべき神の愛です。皆さんは天国というものを思い描かれることと思いますが、天国は悲しみ、恨み憎しみなど人間の罪がない所だから天国です。しかし人間の努力でそのように聖くなることは不可能です。ただ自分の罪の身代わりとなってくださった神イエス様を信じる以外に、人間に道はないのです。

 皆さん、キリスト教にも多くの過ちと失敗があると思われている方もいるでしょうが、それは間違っています。権力を与えられた自称クリスチャンが、神から離れ、世の権力を用いて自分の肉的な野望を達成しようとしただけです。聖書はそのような過ちを語ってはおりません。見分けてください。神に誤りは無く、真に神に従う者は世より天を選ぶのです。真の宗教、真の神を信じましょう。

2021年6月13日 (日)

終末の教会

✝ テサロニケⅡ 2章3節  2017新改訳

どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。

終末の教会の特徴の一つとして、不法の者、滅びの子が教会内に現れて来ることです。しかしそれはキリストの再臨前、大患難時代のことだと書かれています。惑わしの霊がしるしと不思議伴ってクリスチャンを誘惑するのです。その時不法の者は<しるしや不思議を用いる>ますので、虹とか癒やしを見てすぐに「神様の確認だ」とするお方は注意が必要です。

 さらに最悪なのは、惑わされた人たちはそのことに気づかず、ますます熱心に迫害することです。安息日の癒やしを律法違反だと断罪し、イエス様を十字架に架けようと執念を燃やしたパリサイ人のようになることです。彼らは真理に覆いがかけられ、目と耳が塞がれて罪を犯し続け、滅びに道連れにされてしまうのです。気がついてみると、取り返しがつかない真逆の世界にいることになります。

 さて注意すべきは7節の「不法の秘密はすでに働いています」という言葉でしょう。これは使徒の時代から現在に至るまで、すでに教会に働いていると言うことになります。その最たるものは何でしょうか。「背教」ということばが使われていますが、ここで言う背教とは具体的には何でしょうか。勿論教えに背くことですが、直接的な意味は偶像崇拝であると私は思っています。十戒の主要な戒めは「神が唯一の存在であること、偶像を造ることや崇拝することを禁じる」ものです。聖書での最も重要な教えは、イエス様も追認された「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして主なるあなたの神を愛する」ことなのです。先ず神であって、それが人であってはならないのです。しかし口先ではともかく、真に聖霊を受けず、神を知らない人は、眼前の権威ある人間に従うことしかできません。それは本物のお札に触ったことが無ければ偽札を見抜け無いのと同様です。

 この不法な者は4節では自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言するとあります。これこそ不法の秘密が働いている事柄であって、実際、聖霊の賜物によって神に用いられている器は、それが自分の力ではなく、神の力であることを骨身に知らされていますから、神のわざを現せば現すほど、ますます神を畏れかしこみ謙遜になるのです。つまり真逆の結果になるのが本当です。私たちはサタンの惑わしを聖書と聖霊によって見分けて行かなければなりません。ただしパリサイ人は覆いがかけられてはいましたが、誰よりも聖書をよく知っていた人々でした。聖書理解ももその決め手になるのはここにおいても、真の信者として聖霊の満たしを受け、主を主として真に従っているかどうかなのです。祈りましょう、肉なる自分が砕かれ、神のあわれみによって子とされ、聖霊によって主と交われる者とされますように。

2021年6月 6日 (日)

神様のお人柄4-神のみ心

Ⅰテサロニケ 4章3節   新改訳2017

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

 神様は私たちが「聖なる者となること」がみこころです。しかしこのみことばをそのままに受け取られて、早速聖なる者となろうと願い心がけられる前に、このお話をお聞きください。

この節の前にパウロは「神に喜ばれるために、どのように歩むべきか」をあなた方に教えたと言い、学んだはずだとも言っています。それはどのような内容だったのでしょうか。答えは次の5章14節以降の勧めであって、特に16~18節において命令形で書かれている「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「すべてのことにおいて感謝しなさい」のようです。パウロはこれらを「神があなたがたに望んでおられること」だと念押ししています。

 しかし果たしてこれらパウロの「聖なる」のことが、実際に行えているでしょうか。現実には私をはじめとして、クリアできていないのではないでしょうか? これでは到底、みこころを行っているとは言えませんし、「聖なる者」になることは、はるか遠くの絵空物語です。そして実際に昨夜も、私が「聖なる者」にされるように祈りますと、逆に世の霊、肉欲の霊らの悪霊が、私を激しく攻撃してきました。妻の助けを借りて私は何とか脱出しましたが、聖を求めれば求めるほど、逆に聖からほど遠い現実が私を打ちのめすのです。

 そこで私は気づいたのですが、パウロが勧めている「聖なる者となること」は確かに神のみこころですが、血肉のからだの間に達成できるとは言ってはいないことです。つまり血肉のからだで生きている間は、天的な目標であっても、実現不可能なのです。可能になるのは携挙などを通し、御霊のからだになった時です。これは神が「地上にあっても天への目標を忘れずに、絶えず目指し続けなさい」、そうするならば必ず成就し実現するとの約束のことばなのです。
 逆にもし血肉にあって、「私は聖なる者とされた」などと思うならば、その人はとんでもない偽りと高慢に陥っているかも知れないのです。聖霊が注がれれば注がれるほど、その人の良心が研ぎ澄まされ、自分の罪深さが浮き上がって来ます。それはあたかも、光が強ければその黒い影もはっきりしてくるようなものです。その結果、人はますます謙虚にされるのですから、自分は聖なる者になった、などと自負することとは真逆です。

神のみこころとは、ご自身が愛される者を、一人も残さずに最終的に天に引き上げることです。携挙や再臨において、神の愛を知るものは、その愛とあわれみによって自分の罪がすべて赦されることに疑いを持ちません。なぜなら父との交わりによって神を知り、信頼することができているからです。ですから今が「聖なる者」とされていなくとも、決してあわてません。自分が子とされている現実がゆるぎないからです

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