神様のお人柄4-神のみ心
✝Ⅰテサロニケ 4章3節 新改訳2017
神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。
神様は私たちが「聖なる者となること」がみこころです。しかしこのみことばをそのままに受け取られて、早速聖なる者となろうと願い心がけられる前に、このお話をお聞きください。
この節の前にパウロは「神に喜ばれるために、どのように歩むべきか」をあなた方に教えたと言い、学んだはずだとも言っています。それはどのような内容だったのでしょうか。答えは次の5章14節以降の勧めであって、特に16~18節において命令形で書かれている「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「すべてのことにおいて感謝しなさい」のようです。パウロはこれらを「神があなたがたに望んでおられること」だと念押ししています。
しかし果たしてこれらパウロの「聖なる」のことが、実際に行えているでしょうか。現実には私をはじめとして、クリアできていないのではないでしょうか? これでは到底、みこころを行っているとは言えませんし、「聖なる者」になることは、はるか遠くの絵空物語です。そして実際に昨夜も、私が「聖なる者」にされるように祈りますと、逆に世の霊、肉欲の霊らの悪霊が、私を激しく攻撃してきました。妻の助けを借りて私は何とか脱出しましたが、聖を求めれば求めるほど、逆に聖からほど遠い現実が私を打ちのめすのです。
そこで私は気づいたのですが、パウロが勧めている「聖なる者となること」は確かに神のみこころですが、血肉のからだの間に達成できるとは言ってはいないことです。つまり血肉のからだで生きている間は、天的な目標であっても、実現不可能なのです。可能になるのは携挙などを通し、御霊のからだになった時です。これは神が「地上にあっても天への目標を忘れずに、絶えず目指し続けなさい」、そうするならば必ず成就し実現するとの約束のことばなのです。
逆にもし血肉にあって、「私は聖なる者とされた」などと思うならば、その人はとんでもない偽りと高慢に陥っているかも知れないのです。聖霊が注がれれば注がれるほど、その人の良心が研ぎ澄まされ、自分の罪深さが浮き上がって来ます。それはあたかも、光が強ければその黒い影もはっきりしてくるようなものです。その結果、人はますます謙虚にされるのですから、自分は聖なる者になった、などと自負することとは真逆です。
神のみこころとは、ご自身が愛される者を、一人も残さずに最終的に天に引き上げることです。携挙や再臨において、神の愛を知るものは、その愛とあわれみによって自分の罪がすべて赦されることに疑いを持ちません。なぜなら父との交わりによって神を知り、信頼することができているからです。ですから今が「聖なる者」とされていなくとも、決してあわてません。自分が子とされている現実がゆるぎないからです
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