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2021年7月

2021年7月25日 (日)

主と交わる

✝使徒 1章8節   新改訳2017

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 今回はいつものようにキャンプ明けは聖会のダイジェストメッセージになります。
「わたしの証人となり」と使徒1章8節にあります。ここで証人になるとは知って、交わって、特別な互いの関係になっていることを前提にしていると言われました。確かに「証人となる」には、実際証する相手を知っていなければ語りようが無いのです。神との交わりが無ければ偽証ですし、その人は神にさばかれることになるでしょう。それ故、聖霊のバプテスマを受けることは大きな祝福です。まだ神様を知っていない人は、聖霊のバプテスマが受けられるように祈りましょう。

 私も聖霊のバプテスマを受けるまでは肉のクリスチャンでしたから、信仰の力は無く、肉に従う自分に、毎日空しさを感じておりました。天国が希望でしたが、その確信が無かったのは当然です。聖霊様が自分の主ではなく、主は私自身であったからです。 

 この後秋元牧師は、実際に聖会に参加することは、主に触れる恵まれた機会であることを力説されました。確かに礼拝でも、オンラインやYouTubeで観ることは観ないよりは良いことです。しかし教会に行き、礼拝に出席し、顔と顔を合わせてリアルに礼拝することに優る礼拝へのベストな参加はあり得ません。その他はすべて擬似的でやむを得ないものです。秋元牧師はこれを<臨在>の違いであり、<主に触れる>恵みの重要なポイントだと言われました。

 その上、「主はどこにおられますか?」と主を求めるアプローチの誤りを指摘されました。主はハナから私たちと「触れ合おう、交わろう」として手ぐすねを引いておられるのです。赦しを求めている人の「罪を赦してやろう」としておられるのです。ここを勘違いしないよう念を押されていました。その上で私も、一つだけ付け加えさせていただきます。
 それは神は愛なる方ですが、それは義にして聖なる諸点を無視して発揮されることは無いことです。主の十字架によって愛を受け、罪を悔い改め、新しくされた者であることです。そうでなければ主はあなたのその罪深さに、ドアを開けることがおできになれないのです。この点をパスしないでいただきたいのです。

2021年7月18日 (日)

あなたは愛されている

Ⅰヨハネ 4章19~20節   2017新改訳

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません

 昨日の土曜日、仕事で子どもたちを乗せていると、ラジオをつけて欲しいとせがまれ、スイッチを入れた途端に、レーナ・マリアの話が聞こえてきました。両腕や左足が形成不全で生まれて来ました彼女は、スウェーデンのパラオリンの水泳で、数々の入賞を果たしました。選手を引退してからは今に至るまでゴスペルシンガーとして世界を回り、度々来日し、長野冬季でも開会式で歌いました。わたしが彼女を知ったのは久米宏さんのTV、ニュースステーションでした。今でもその時語った彼女の証しは、放送の自粛規定すれすれだったと思いますが、力強く脳裏に残っています。異口同音に彼女に対し「その明るさはどこから来るのか」の問いに、彼女はいつも同じ答えをしています。「私は、私のこの特別な体は神様の計画ために造られたのだから、そのために使っていただきたいと思っていますし、そのようにお祈りしていると、神様が親友でいてくださることがわかって、いつも喜んでいることができる」と。
 障害は目に見えるものと見えないものがありますが、霊、魂にそんな垣根みたいなものはありません。レーナさんの障害は見える形を通して、私たちの障害者感こそ、実は障害であることを明らかにし、造られた者が造ってくださった方に対し、それは各自異なってはいますが、それぞれに与えられ計画(み心)を行うならば、どれほど命が素晴らしく輝くかを実証し、学ばせてくれるのです。

 私たちは一人ひとりがレーナ・マリアでもあります。神の目には高価で尊い(イザヤ43:4)のですし、神に愛されて(1ヨハネ4:19)この世に生まれて来たのです。全能の神に当たり外れはあり得ません。み心がただ、お一人おひとりに異なっているだけなのです。もし世の人から見て羨ましいほどの健全な体と恵まれた豊かな家に生まれたとしても、神を信じなかったら何の意味もないのです。もし豊かさが高ぶりを招き、真実の人間の姿が曇って見えたとしたら、それは本当に不幸としか言いようがありません。

 神が人間のために天地万物を創造され、天使たちすら創られたのです。万物の創造の目的は多くの人を神ご自身の子として、友として得るためでした。神は人を愛してくださったのです。それは天使のように、受け身形で聞き従うだけでなく、レーナのように「どうか主よ、この私をあなたの者とし、あなたのみ心のためにお持ちいください」という自ら進んでの自主的、積極的な魂を得るためでした。それ故、神の子は神の御性質と等しく、兄弟姉妹をも心から愛するはずです。愛せない人は、世のものです。これは神から来ているのです。

2021年7月11日 (日)

みことばを行う人になりなさい

ヤコブ 1章21~22節   2017新改訳

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。

 私たちは聖書の民です。聖書は人類にとって唯一の特別な書であって、神を知ること、その真理も信仰もすべてこの書から来ています。神が与えてくださったこの書によって私たちは生き、養われています。聖書だけがすべての知の土台であって、一切の権威、力の源です。またこの書に付け加えるあらゆるもの、聖母崇拝、使徒権の継承、聖人、秘蹟などを私たちは受け入れません。
 しかしイスラエルの民があのシナイの荒野で日毎マナによって養われても、結局はその信仰が保持されなかったように、宗教改革を経て誕生したプロテスタント教会の多くの現状が、聖書のみ言葉が有り難いお経のようになって、ただ聞き流されて実際の生きる力となっていないのを見るのです。要するにこれは霊的な問題であって、神への「信仰」とその渇きが乏しいからなのです。

ヤコブ書は聖書の中でもっとも早期のものですが、初代教会からしてすでに現在のような傾向がみられていたようです。まだ新訳の多くの文書が出回る前という背景から、ここでの「み言葉」とは兄イエスのことば録と旧約とを指していると思われますが、「福音を聞いても、もし行いが伴わない」なら、信仰に何の意味があるのだろうかと問いかけています。これは信仰による義を否定しているわけではなく、信じた結果、十字架によって赦され新たに生かされた人としての生まれ変わっての「行いのないあなたの信仰をわたしに見せてください(2:18)」と言っているわけです。つまりこれは実の問題でもあります。信じた結果、生き方が変わらない信仰はあり得ず、そのような実の伴わない信仰とは偽りの告白(2コリント5:18-23)になります。
 これには順番があります。先ず福音を信じ、悔い改めること。次に罪から解放され、自分を捨て、聖霊の内住された者として新生すること。そして生まれ変わった者としての新生の実をつけることです。真に信じたなら、肉のままの元の自分でいることはありえません。ヤコブはこの最後の実のことを言っているだけなのです。

 御言葉には力があり、信じて聖霊のバプテスマを受けた人に、それまでの肉の人に戻ることは不可能です。ただ聞くだけの者となるはずがないのです。しかし理想はすべての人が聖霊のバプテスマを受け、新生した人になることですが、もちろん信者であってそれを求め続けている人も多いのです。その場合、ただ一つだけ注意点があります。それは御言葉は神のことばであって、従って霊的なものです。これを正しく理解して受け取ることが重要です。ですから御言葉を聞いても読んでも、それに少しの疑問点も無く、勝手な解釈のままに受け入れないようにしましょう。そのために教会があり、牧師や伝道師が存在しているのです。どうか神の霊が主となってその人に住まうように、共に祈りましょう。

 

2021年7月 4日 (日)

本当の自分に立つ

ヨハネ 14章6節   2017新改訳

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

 真実とは良く言った言葉だと思います。実が本当にあるという字だからです。このことから、イエス様が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ」と語られたことは次の一つの法則を示しています。つまり神を信じて救い主と告白しても、ただ口にしたことばがその通りに、約束された実を結んで(ガラテヤ5:22-23)こそ、真に神の国人になると言っているわけです。
従ってどんなに教会生活が長く、どんなに教会の重要な役職を奉仕をしていようと、それら目に見えることは、永遠のいのちである天国とは関係ないことです。むしろそれらは、ある意味、さばかれる原因の一つになるかも知れません。

 「真に実を結ぶ」とは、たとえば先ほどの I姉の証しのように、偽りに立たず、「真実」に立って生きることを選ぶということです。神を信じる者には、たとえ当座はつらくても、そのように神が造られた恵みの計画を信じますから可能なのです。そして実際、神は信仰に応じて祝福して下さいます。信仰がなければ神に喜ばれないのと同様、真のクリスチャンは偽りに耐えられません。内住されている神に聞き従うので、真実の上に立つのです。
 問題は自分自身の真の姿、それがわからないクリスチャンがいることです。そのような方にも神は試練や困難を送って,どうにかして気付かせようとされるのです(ヘブル12章5-7節)。しかしどのようにしても、人間的な偽りに気づけない場合、悔い改めて新生し、その人の中に神が住まうことは困難です。私たちは口先のことばではなく、自分の本当の姿から、十字架の神の愛にすべてを委ね、すべての希望を見いだす者となっていきましょう。

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