主と交わる
✝使徒 1章8節 新改訳2017
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。
今回はいつものようにキャンプ明けは聖会のダイジェストメッセージになります。
「わたしの証人となり」と使徒1章8節にあります。ここで証人になるとは知って、交わって、特別な互いの関係になっていることを前提にしていると言われました。確かに「証人となる」には、実際証する相手を知っていなければ語りようが無いのです。神との交わりが無ければ偽証ですし、その人は神にさばかれることになるでしょう。それ故、聖霊のバプテスマを受けることは大きな祝福です。まだ神様を知っていない人は、聖霊のバプテスマが受けられるように祈りましょう。
私も聖霊のバプテスマを受けるまでは肉のクリスチャンでしたから、信仰の力は無く、肉に従う自分に、毎日空しさを感じておりました。天国が希望でしたが、その確信が無かったのは当然です。聖霊様が自分の主ではなく、主は私自身であったからです。
この後秋元牧師は、実際に聖会に参加することは、主に触れる恵まれた機会であることを力説されました。確かに礼拝でも、オンラインやYouTubeで観ることは観ないよりは良いことです。しかし教会に行き、礼拝に出席し、顔と顔を合わせてリアルに礼拝することに優る礼拝へのベストな参加はあり得ません。その他はすべて擬似的でやむを得ないものです。秋元牧師はこれを<臨在>の違いであり、<主に触れる>恵みの重要なポイントだと言われました。
その上、「主はどこにおられますか?」と主を求めるアプローチの誤りを指摘されました。主はハナから私たちと「触れ合おう、交わろう」として手ぐすねを引いておられるのです。赦しを求めている人の「罪を赦してやろう」としておられるのです。ここを勘違いしないよう念を押されていました。その上で私も、一つだけ付け加えさせていただきます。
それは神は愛なる方ですが、それは義にして聖なる諸点を無視して発揮されることは無いことです。主の十字架によって愛を受け、罪を悔い改め、新しくされた者であることです。そうでなければ主はあなたのその罪深さに、ドアを開けることがおできになれないのです。この点をパスしないでいただきたいのです。
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