みことばを行う人になりなさい
✝ヤコブ 1章21~22節 2017新改訳
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。
私たちは聖書の民です。聖書は人類にとって唯一の特別な書であって、神を知ること、その真理も信仰もすべてこの書から来ています。神が与えてくださったこの書によって私たちは生き、養われています。聖書だけがすべての知の土台であって、一切の権威、力の源です。またこの書に付け加えるあらゆるもの、聖母崇拝、使徒権の継承、聖人、秘蹟などを私たちは受け入れません。
しかしイスラエルの民があのシナイの荒野で日毎マナによって養われても、結局はその信仰が保持されなかったように、宗教改革を経て誕生したプロテスタント教会の多くの現状が、聖書のみ言葉が有り難いお経のようになって、ただ聞き流されて実際の生きる力となっていないのを見るのです。要するにこれは霊的な問題であって、神への「信仰」とその渇きが乏しいからなのです。
ヤコブ書は聖書の中でもっとも早期のものですが、初代教会からしてすでに現在のような傾向がみられていたようです。まだ新訳の多くの文書が出回る前という背景から、ここでの「み言葉」とは兄イエスのことば録と旧約とを指していると思われますが、「福音を聞いても、もし行いが伴わない」なら、信仰に何の意味があるのだろうかと問いかけています。これは信仰による義を否定しているわけではなく、信じた結果、十字架によって赦され新たに生かされた人としての生まれ変わっての「行いのないあなたの信仰をわたしに見せてください(2:18)」と言っているわけです。つまりこれは実の問題でもあります。信じた結果、生き方が変わらない信仰はあり得ず、そのような実の伴わない信仰とは偽りの告白(2コリント5:18-23)になります。
これには順番があります。先ず福音を信じ、悔い改めること。次に罪から解放され、自分を捨て、聖霊の内住された者として新生すること。そして生まれ変わった者としての新生の実をつけることです。真に信じたなら、肉のままの元の自分でいることはありえません。ヤコブはこの最後の実のことを言っているだけなのです。
御言葉には力があり、信じて聖霊のバプテスマを受けた人に、それまでの肉の人に戻ることは不可能です。ただ聞くだけの者となるはずがないのです。しかし理想はすべての人が聖霊のバプテスマを受け、新生した人になることですが、もちろん信者であってそれを求め続けている人も多いのです。その場合、ただ一つだけ注意点があります。それは御言葉は神のことばであって、従って霊的なものです。これを正しく理解して受け取ることが重要です。ですから御言葉を聞いても読んでも、それに少しの疑問点も無く、勝手な解釈のままに受け入れないようにしましょう。そのために教会があり、牧師や伝道師が存在しているのです。どうか神の霊が主となってその人に住まうように、共に祈りましょう。
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