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2021年8月

2021年8月29日 (日)

狭き門より入れ

マタイ 8章13-14節   2017新改訳

それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。
それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。

 ここで「狭き門」と言われていますが、クリスチャンになった自分はすでに狭い門をくぐっていると思っている節があります。これはまったくの読み誤りでしょう。続く21節の「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのでなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」とあるからです。広い門も狭い門もみなクリスチャンのことであって、多くのクリスチャンが広い門を選んでしまい、滅ぶと受け取るべきです。

 どうして多くのクリスチャンが広い門、広い道を選ぶのでしょうか。多くの人が行く・・・多くの人の連れがあることで、安心感があることでしょう。広いので世的で妥当な道と見えるのでしょう。しかし21節を見ると、「父のみ心を行う者」とあり、<み心>がポイントです。これは真に神を信じ、聖霊のバプテスマを受け、常に天の父と交わっていなければ御心を知ることができません。そのような人は自分の使命をも知らされています。たとえ聖霊派、カリスマ派の教会員であっても、直接聖霊様と交わって聞き従っている方は少数なのかも知れません。
 狭き門をくぐる聖徒とは、殉教者をはじめ、血肉の命を神に捧げています。肉が死んで新生し、聖霊の実を実らせている方々です。生きながらすでに殉教しているので、携挙されるのはこのような方々です。妬み、肉欲、物欲に日々支配されていて、神のみ心を知ることができないのです。

 ここ半年から数ヶ月、わたしは安利淑著の「たとえそうでなくても」をもう一度読むよう促されてきました。1972年という半世紀近く前の本で、当時一度読んだものの、手元から失われてしまったものでした。促されて再び買おうと探しましたら、あまりにも高価な本になっていました。しかし驚いたことに、今月の東京カリスマ聖会で「たとえそうでなくても」がなぜか上映されたのです。その聖会後の帰り道、同乗されたある方に、相談したら、なんと「あります、貸してあげましょう」と即座に郵送してくださったのです。主の促しはスピーディに、即刻実現するのです。

 この本は76年前までの日本が行った、キリスト教弾圧と迫害の真実な記録です。朝鮮の人々に皇民化政策を推し進め、牧師や信徒たちを捕縛し、拷問し殺しました。これからそのうちの二人の牧師の話を聞いた安姉の記録を読ませていただきます。一人は奇跡を期待した若い牧師、もう一人はそうではなく、十字架の苦しみを負うことを決心した牧師です。それではお聞きください。
 私たちは、広い門を通った日本のキリスト教会がどうなったのか、その結果を知っています。空から降ってきた焼夷弾、硫黄の火で都市は廃墟となりました。少数ですが、狭き門を選び、その栄光をも見た教派もあります。迫害を受けた教会でした。その当座はただ主に従うだけでしたが、神は怠りなく酬いてくださる方であることを見るのです。これは来るべき世への備えです。

2021年8月22日 (日)

主イエスよ来て下さい

黙示録 22章20節   2017新改訳   

これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

「主イエスよ来て下さい」
 本日の聖書日課が黙示録22章になります。この章では3度も「見よ、私はすぐに来る」があります。一つの章の中でこれだけ繰り返される、これには大きな意味があると思われます。英語では【Surely I am coming quickly】ですが、<行く>というgoではなく、戻って<来る>という意味的なcomeが用いられているので、この地上こそが神の最終的な約束の地です。実際、天のエルサレムが太陽も月も、山も海も無くなったこの地上に降りてくるのです。

 さて私たちの教会は、11年前の2010年8月16日の日曜日にスタートしたわけですから、ちょうど12年目の歩みに入ったわけです。今年が閏年もあって曜日がピタッと同じに重なった年である事や、聖書日課がカレンダーと黙示録の章が同じ数字になっています。神を信じる者にとって偶然はありませんから、この教会に主の御手がある事を感じます。それだけでなく昨日変なというか、不思議な体験をしました。

 昨日、仕事の都合でコンビニのトイレをお借りしなくてはならなくなり、子どもが用を足している間、レジ横で私は立っておりました。すると店員の一人が運転免許証らしきカードを持って来て「これ、あなたのではありませんか?」と言ってくるではありませんか。見るとそのカードは紛れもなく私のものでした。「えええ、どうして!」と一瞬混乱しました。しかし今月の10(火)、免許証をコピーする必要があってこのお店でコピーしたことを思い出しました。それでコピー機に忘れて、ずっとそのままだったことに気がつきました。なんと3週間私は免許不携帯で走り回っていたのです。
 免許証はお礼を言って返していただいたのですが、しかし何だか変です。これは普通の事ではありません。お店の中で忘れ物があったら、即日ではないにしても、速やかに警察にとどけますよね。しかし警察に届けず、ずうっと今日来るか、明日来るかと私を待ち続けてくださったのです。たくさんのお客が出入りするお店で、これはちょっとあり得ないと思うのす。20日間待ち続けられ、ついに発見されました。「こんな事ってあるかなあ」が私の最初の印象でした。しかし皆さん、これは私たちクリスチャンが一人ひとり、神に覚えられて、一日千秋の思いで悔い改めを待たれている、そんな神のみ心そのものだと私は思わされたのです。

 今私の免許証忘れのように、「自分はなかなか聖霊の恵みを受けられない・・・」「どうせ神様の勝手、どうしたって自分には無理だ」、そう思っておられる方々、それはみ心をないがしろにすることです。神はあなたをコンビニ店員さん以上に待っておられるのです。悔い改めた時が来るのを、です。聖霊の恵みを求めることは、み心です。皆さんの肉の心、石の心はご自分の力で断ち切り、聖めることは困難です。ただ導かれることを信じ、祈り、待ち続けましょう。それが信仰です。

2021年8月15日 (日)

新たなスタート

使徒 16章9節   2017新改訳

彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは彼らに血を飲ませられました。彼らにはそれがふさわしいからです。

 さて先週の礼拝でお証ししたように、私たちの教会には明白に主のみ心があります。「結腸癌の疑い」からの牧会への主の召し、群れ全体への「マケドニアの叫び」に応じた実質唯一人の牧師。この牧師は<日本のリバイバル>に召された牧師ですから、教会もそうなのです。

 その召された教会がカリスマであることに大きな主の計画があります。牧師だけがこの召しを受け、ついてきなさい、ではなく、個々の教会員のレベルにおいても聖霊様から同様の召しを受けほしいのです。牧師が言うからではなく、一致して同じ召しであれば、どれほど強力なスクラムになり、主の召しを確かに行える教会であることでしょうか。

 さてそのためには、私たちの教会員の多くが聖霊のバプテスマを受け、主にみ心を聞く者でなければ話になりません。ヨハネ12章24では、「一粒の麦は、地に落ちて死なずば、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」とあるように、肉の自分が死ななければ、聖霊様がその人の内で<主>になることができません。なぜならその人の罪深い肉が主であれば聖霊様は内住されていも、しもべとしてなので、しもべが主人に教え語ることも、諭すこともできないからです。

本当に自分の罪がわかり、悔い改めて聖霊のバプテスマを受けることで、賜物として聖霊を受ける内容のことが使徒2章8,38節にあります。ところが自分に死のうとどんなに努力や修行をしたところで、それは実現不可能です。私たちは自身が一番自分を知っているように思っていますが、とんでもない、あなたの造り主である神が一番あなたをご存知なのです。ですから事は神によるのです。

「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネ3:8)
それゆえ一切を神に委ね、信仰をもって祈り求めましょう。聖霊を求めることはみ心なのですから。神はパンを求める子に石を、魚を求める子に蛇を渡したりはされません。真に求め、祈られるならば、必ず与えられるのです。ただし、その時まで信仰による忍耐が試されます。熱心に待ち望みましょう。

2021年8月 8日 (日)

証人としての力

使徒 1章8節   2017新改訳
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 今年の夏白馬でのテーマ「証人としての力」で強調されたことは、<神に触れられる><聖霊のバプテスマ>の体験であった。本日はその「証人」の<力>とは如何なるものか、それらを具体的に理解して行きます。12年目の当教会の出発に当たり、それが土台とするべきものだからです。4~5年前ぐらいにハリウッドのスコセッシ監督によって映画「沈黙ーSilent」がリリースされました。この小説が発売された直後、高一でしたが私は読みまして、「殉教をいとわぬほどの信仰が無ければ、かえって躓きになる。だから安易にバプテスマを受けてはいけない」と思い、結局二十歳になるまでバプテスマを受ける決心ができなかったことを思い出します。

 この「沈黙」の主人公はロドリゴという若き司祭ですが、日本の長崎に潜入したものの、密告されて捕縛され、巧みに棄教を迫る奉行によって踏み絵を踏んでしまいます。「あなたが転ばないから、あなたを信じている多くの信者が苦しんでいる」と。耐えかねてロドリゴが踏み絵を踏んだ時、すべてを失った痛みに、キリストがこのために十字架に架かられたのだと気づいた・・・ことで物語は終わっています。これはすぐにわかることですが、神を証しすることと真反対です。棄教を正当化するだけのサタン的なものです。ロドリゴは聖霊に従ってでなく、師のフェレイラが転ぶはずがないという肉的な動機で来たのですから、神は沈黙を守られたのです。

 さらに今回、安利淑(アン・インスク)の「たとえそうでなくても」の動画が8月の東京カリスマ聖会で流されました。利淑姉がどんなに朝鮮の迫害の状況を訴えても、当時の日本のクリスチャンが協力するはずがなかったのです。当時ホーリネス系の教会と牧師に対し、官憲による大弾圧はじまり、百二十あまりの教会と牧師、殉教した牧師九人を出すほどでした。この迫害に対し、なんと当時の日本キリスト教団は、この官憲による逮捕と拷問を歓迎し、幹部が「彼らは手のくだしようもないくらい気違いじみているため、当局において処断されることは、教団にとって幸い」だとか、「こうした不純なものを除去することは、かえって運営上好結果が得られる」と発言したのです。

 その後教団は遺族に謝罪しましたが、根本的な誤りに気付き、悔い改めた訳ではありません。彼らはまたその誤りを繰り返すでしょう。なぜなら神に触れられ、「証人としての力」、すなわち聖霊のバプテスマを受けて神のみ心を行う者との違いに、全く気付いていないからです。結局、終末の時代が来た際には再び聖霊派の教会に対し、繰り返して迫害する役回りを演じることでしょう。彼らにはクリスチャンの裁きが、滞りなく行われるのです。私たちは天に属するものとして、世での命を惜しまず、神に依り頼んでその力を受け、「神の証人」として立たねばなりません。

2021年8月 1日 (日)

その血によって

黙示録 1章5節   2017新改訳

また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち

 愛することは、愛されることよりも大きな喜びがある。しかし愛されることに欠乏を感じて育った人にとって、生涯「愛される」ことを求め続けます。しかしそれは、来受けるべき相手であった親から受けるべき時期を逸しており、その親だって愛を受けずに親になっている事が多く、実際には受けることがほとんど不可能です。よく結婚する相手に求めようとするのですが、それもイコールパートナ-の点から無理なのです。離婚って、だいたいそんな理由から生じています。

 話を戻しまして、レビ記17章14節に「すべての肉のいのちは、その血そのもの』とあり、これを元に輸血を拒否する自称キリスト教の人々がいます。しかしこれは罪の贖いに動物の血をもってするメシア以前の不十分なものでした。ヘブル書10章10節には、「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされ」とあり、もはや血の犠牲は不要です。
ですから旧約の「血」の理解に基づく輸血拒否の見解は、キリストの神性を否定する十字架の理解から来る誤りであることが分かります。
 さて、キリストが十字架の上で流された血潮は、私たちの罪を赦し、解放するものです。神の愛はこの十字架の贖いの血に最も端的に表れています。それゆえ自分の罪を真に知らされた者は、十字架を愛しますし、その血を我が事、私のためであることがわかります。ですからこの罪の赦しを得させるキリストの血は、どんなに慕わしく麗しいものでしょうか。永遠のいのちそのものであり、神がそのいのちを持ってあがなってくださった恵みです。ですからそれを受けた私たちも、自分の命をもって神を愛し、捧げるのは当然ではないでしょうか。私たちは神が十字架の血潮を持って買い取られたのですから、もはや神のものです。別に聖書にあるように命令されなくても、私たち神を愛する者は、兄弟姉妹を自然に、心から愛します。その愛で教会は満ちるのです。

 もし教会の中で愛のない行動を、たとえば兄弟姉妹を妬んだり、陰口をたたいたり、中傷したりするならば、冒頭で述べましたように、たとえバプテスマを受けていようと、その人は肉の人であって、冒頭に述べたように人の愛を求め続けてさまよっている人であって、奉仕し、愛する教会にあって、自分の肉のためにただ奪って得ようとし、人を躓かせようとサタンに用いられているのです。
 私は信じますが、そのような人も自分の真の罪が分かり、悔い改めれば、親から得られなかった愛を、キリストの中に無尽蔵に受けて癒やされ、変えられるのです。絶望した自分からキリストの愛に触れるならば、個人的な奇跡が起こるのです。神に触れられること、そして聖霊のバプテスマを受け、一新されるのです。神は愛する者を必ず試練や困難を通して訓練されます。ハレルヤ、その人は根本から変えられます。ですから試練や困難が来たら喜んでください。

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