狭き門より入れ
✝マタイ 8章13-14節 2017新改訳
それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。
それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。
ここで「狭き門」と言われていますが、クリスチャンになった自分はすでに狭い門をくぐっていると思っている節があります。これはまったくの読み誤りでしょう。続く21節の「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのでなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」とあるからです。広い門も狭い門もみなクリスチャンのことであって、多くのクリスチャンが広い門を選んでしまい、滅ぶと受け取るべきです。
どうして多くのクリスチャンが広い門、広い道を選ぶのでしょうか。多くの人が行く・・・多くの人の連れがあることで、安心感があることでしょう。広いので世的で妥当な道と見えるのでしょう。しかし21節を見ると、「父のみ心を行う者」とあり、<み心>がポイントです。これは真に神を信じ、聖霊のバプテスマを受け、常に天の父と交わっていなければ御心を知ることができません。そのような人は自分の使命をも知らされています。たとえ聖霊派、カリスマ派の教会員であっても、直接聖霊様と交わって聞き従っている方は少数なのかも知れません。
狭き門をくぐる聖徒とは、殉教者をはじめ、血肉の命を神に捧げています。肉が死んで新生し、聖霊の実を実らせている方々です。生きながらすでに殉教しているので、携挙されるのはこのような方々です。妬み、肉欲、物欲に日々支配されていて、神のみ心を知ることができないのです。
ここ半年から数ヶ月、わたしは安利淑著の「たとえそうでなくても」をもう一度読むよう促されてきました。1972年という半世紀近く前の本で、当時一度読んだものの、手元から失われてしまったものでした。促されて再び買おうと探しましたら、あまりにも高価な本になっていました。しかし驚いたことに、今月の東京カリスマ聖会で「たとえそうでなくても」がなぜか上映されたのです。その聖会後の帰り道、同乗されたある方に、相談したら、なんと「あります、貸してあげましょう」と即座に郵送してくださったのです。主の促しはスピーディに、即刻実現するのです。
この本は76年前までの日本が行った、キリスト教弾圧と迫害の真実な記録です。朝鮮の人々に皇民化政策を推し進め、牧師や信徒たちを捕縛し、拷問し殺しました。これからそのうちの二人の牧師の話を聞いた安姉の記録を読ませていただきます。一人は奇跡を期待した若い牧師、もう一人はそうではなく、十字架の苦しみを負うことを決心した牧師です。それではお聞きください。
私たちは、広い門を通った日本のキリスト教会がどうなったのか、その結果を知っています。空から降ってきた焼夷弾、硫黄の火で都市は廃墟となりました。少数ですが、狭き門を選び、その栄光をも見た教派もあります。迫害を受けた教会でした。その当座はただ主に従うだけでしたが、神は怠りなく酬いてくださる方であることを見るのです。これは来るべき世への備えです。
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