証人としての力
✝使徒 1章8節 2017新改訳
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。
今年の夏白馬でのテーマ「証人としての力」で強調されたことは、<神に触れられる><聖霊のバプテスマ>の体験であった。本日はその「証人」の<力>とは如何なるものか、それらを具体的に理解して行きます。12年目の当教会の出発に当たり、それが土台とするべきものだからです。4~5年前ぐらいにハリウッドのスコセッシ監督によって映画「沈黙ーSilent」がリリースされました。この小説が発売された直後、高一でしたが私は読みまして、「殉教をいとわぬほどの信仰が無ければ、かえって躓きになる。だから安易にバプテスマを受けてはいけない」と思い、結局二十歳になるまでバプテスマを受ける決心ができなかったことを思い出します。
この「沈黙」の主人公はロドリゴという若き司祭ですが、日本の長崎に潜入したものの、密告されて捕縛され、巧みに棄教を迫る奉行によって踏み絵を踏んでしまいます。「あなたが転ばないから、あなたを信じている多くの信者が苦しんでいる」と。耐えかねてロドリゴが踏み絵を踏んだ時、すべてを失った痛みに、キリストがこのために十字架に架かられたのだと気づいた・・・ことで物語は終わっています。これはすぐにわかることですが、神を証しすることと真反対です。棄教を正当化するだけのサタン的なものです。ロドリゴは聖霊に従ってでなく、師のフェレイラが転ぶはずがないという肉的な動機で来たのですから、神は沈黙を守られたのです。
さらに今回、安利淑(アン・インスク)の「たとえそうでなくても」の動画が8月の東京カリスマ聖会で流されました。利淑姉がどんなに朝鮮の迫害の状況を訴えても、当時の日本のクリスチャンが協力するはずがなかったのです。当時ホーリネス系の教会と牧師に対し、官憲による大弾圧はじまり、百二十あまりの教会と牧師、殉教した牧師九人を出すほどでした。この迫害に対し、なんと当時の日本キリスト教団は、この官憲による逮捕と拷問を歓迎し、幹部が「彼らは手のくだしようもないくらい気違いじみているため、当局において処断されることは、教団にとって幸い」だとか、「こうした不純なものを除去することは、かえって運営上好結果が得られる」と発言したのです。
その後教団は遺族に謝罪しましたが、根本的な誤りに気付き、悔い改めた訳ではありません。彼らはまたその誤りを繰り返すでしょう。なぜなら神に触れられ、「証人としての力」、すなわち聖霊のバプテスマを受けて神のみ心を行う者との違いに、全く気付いていないからです。結局、終末の時代が来た際には再び聖霊派の教会に対し、繰り返して迫害する役回りを演じることでしょう。彼らにはクリスチャンの裁きが、滞りなく行われるのです。私たちは天に属するものとして、世での命を惜しまず、神に依り頼んでその力を受け、「神の証人」として立たねばなりません。
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