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2021年9月

2021年9月26日 (日)

まず神の国を求める

マタイ 6章33節   2017新改訳

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

 この世の人々の天国と地獄の理解は、「帰って来たヨッパライ」の歌同様、まったく自分に都合の良いものです。しかし聖書で描かれている神の国(天の新しいエルサレム)とゲヘナが真実なのです。混同しないために下図で示します。ルカの16章では、最初、黄泉の世界は三つの部分に別れていました。その中の地獄的な炎の中で、金持ちが貧しいラザロを哀れまなかったが故に暑さで苦しんでいました。その彼がふと見上げると遠く上の方、天的なアブラハムのふところではあののラザロが居て、慰めを得ていたという話です。この両者の間には、深い淵があって、全く行き来出来ないのでした。しかしキリストの十字架の福音は、信仰によって完全に罪を赦されて行くので、下図のように黄泉が天的な部分である神の国パラダイスとして分離しました。Photo_20211002163001

 こうなると二つの世界は完全に別世界となりました。そしてこの時代十字架の時代の後、最後の審判が行われた後は、それぞれに滅びない体が与えられるのですが、新しいエルサレムでは悲しみも苦しみもない栄光の神の民として、一方ゲヘナでは永遠に苦しみ続けるための体として与えられるのです。ですからこれはまったく正反対です。
 ただし天のエルサレムには臆病な者、不信仰な者、偶像を拝む人などは入ることができず、キリストを信じることを告白していても、火と硫黄のゲヘナに行くことになります。

 さて天のエルサレムとはどんなところでしょうか。それはとにかく素晴らしいところとして主に黙示録21、22章に描かれています。一辺が2,200kmの信じられないほどの巨大な城郭都市で天から降りてきます。太陽や月がなくても、もっと素晴らしい絶えない光が神の御座から光り輝き、街や周辺全体を照らしています。いのちの水の川が中央から流れ出て、その川のほとりには月々に変わる木の実がなっています。
 本日はこのぐらいにしますが、新しい天のエルサレムは素晴らしい所です。どんなことがあろうと、強い願いを持って主に祈り求めて行きましょう。

2021年9月19日 (日)

エリ、エリ、レマ、サバクタニ

マタイ 27章46節   2017新改訳

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 題名は古代のアラム語であり、意味は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。受肉して人の姿になられ、多くの人々を教え、癒やし、わざを現した神の子が、その結果として考えられないほどの苦しみを受けた挙句、十字架上の今際(いまわ)の際に、どうしてこのように遣わされた神から<見捨てられ>なければならないのか。多くのクリスチャンは理不尽に思い、不可解なことと受け取っているようだ。このような人は当然サタンからも狙われ、信仰が窮地に陥っているケースが多い。

 結論から言えば、それは全人類の罪を背負われた贖いの意図を理解せず、Photo_20211002164601  ペテロがイエスをなだめたような人間的な思考でこのことばを理解しようとした誤りである。処断され見捨てられたのはイエス様ではなく、人類の罪の方である。その罪は最も偽善家であるパリサイ人の代表によって告発され、時の権力によって血肉の命を奪うべく実行された。彼らはイエス様の血肉の死を目的にしたが、その霊に対しては無力である。私たちの罪を私たちの創造者である神ご自身がその責を取り、贖いのわざを果たされたのである。そしてイエスの名によって私たちの罪も十字架の贖いのわざを信じるなら、完全に赦されることになった。神がお見捨てになったのは、繰り返して言うが、人間の罪に対してであった。
 だが、そのイエス様は最後の大声での叫びによって、血肉の使命を全うされた上、ご自身の霊を天の父の元にお戻しになった。人類の罪の全てを神は御子イエスに背負わされたまま葬られたのである。繰り返すが、それゆえ人はイエス・キリストを信じるだけで、その罪が赦されるのである。救いのわざのすべてが十字架によって「完了」したのである。

 こうして真に自分の罪を自覚したクリスチャンにとって、その罪の身代わりとなってくださった十字架のイエス様の血潮は慕わしく、また狂わんばかりに十字架の血が自分の生きるいのちそのものとなっていることを自覚するのである。たとえ神を信じない人々からは「気味悪い」「吸血鬼」とか誤解されようと、私たちは意に介さないのである。この群れでよく賛美されるのが「尊き血潮を流された‥‥十字架の愛(一例8集60、救い主イエス」であるのは以上のような理由による。私たちはこの賛美を、これまで以上に声を大にして歌おうではないか。

2021年9月12日 (日)

今の時は

✝ ローマ 10章18節   2017新改訳

では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。

  今年の9・11までに20年になる長い戦いを避けようと撤退したアメリカは、アフガニスタンにおいて敗北したも同然です。再びテロ国家が世界の一国として登場することになったのです。これは20年近くも続けたベトナム戦争を思い出させます。圧倒的な軍事力を持っていたアメリカは、共産主義と今回は、イスラム原理主義に勝てなかったわけです。聖書的に見るならばこれ以後の世界は、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」(マルコ13:8)となるでしょう。人類普遍かと謳われたキリスト教的価値観は、明らかに行き詰まりを呈しているのです。

 私たちはこれまでマタイ24:14の「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」をそのまま受け取り、全世界がキリスト教化して終わりが来ると思っていました。しかしそうではないことが明らかになっています。世界の宗教分布図を見てください。キリスト教はアジアの西部と中央部を除いて、ほぼ世界を覆っています。共産主義の国では迫害されていますが、今も地下教会はしぶとく福音を伝えています。イスラム教国でもクリスチャンは迫害されていますが、その比率は日本より高いのです。

 聖書をよく読んでみると、ローマ書10:18には『その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた』とあります。これは福音が届くということであって、世界中がキリスト教国になるという意味でないことに気づきます。共産国には地下教会を通して、イスラム教国にはSNSや教会を通して、福音は伝わり届いていれば良いのです。

 つまり福音はすでに全世界に伝わっており、終末の全世界に福音がほぼ伝わっているという印象を持ちます。つまりキリスト教国かどうかはすでに関係なく、世界の終わり、終末の舞台のお膳立てがほぼほぼ整ったと見れるのです。

 とするならばすでに信じた私たちは黙示録3:3の「思い起こし、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、私は盗人のように来る」とあるように、<悔い改め、(聖霊の満たしを受けて)目を覚まさ>なければならないのです。そうすれば「戸の外に立ってたたいている」主が入って来られ、「ともに食事をする」という主との交わりの恵みの中に入るのです。ですから自分の深刻な罪に目を覚まし、<永遠のいのち>なる主と生きることの命に勝る価値に目覚めて気がつかねばなりません。そのような人は、それまでの暮らしてきた世のすべてを喜んで捨てることでしょう。むしろ邪魔物なのです。先ほどの証しのように、その類いのしるしが伴うのです。
 永遠のいのち、ただそれだけに目を覚まし、神と交わって生きる、それが目を覚ますことです。

2021年9月 5日 (日)

誠にあなたは神の子です

マタイ 14章33節   2017新改訳

舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。

 これまでペテロの水上歩行はいろいろ語れて来ました。結局は歩けなかったペテロの弱さ、不信仰を責めるケースと、逆に少しでも水上を歩けた(イエスという神でなく)人間はペテロが唯一であると持ち上げたりするものです。今回私が示されたのは、ペテロの叫び声「主よ、助けてください」を聞かれたイエス様が即座に手を伸ばされ、ペテロを掴んで引き上げてくださったことです。つまり視点をイエス様に置いてみようということです。

 ペテロは信仰に立って歩みでましたが、途中で波立つ強風にさらされ、それを見た途端に彼は現実に戻され、恐怖の余り沈みかけました。私たちもどんなに時に強く信仰に立ったとしても、ペテロとまったく同様に恐れおののくことはしばしばなのです。血肉のからだをもった弱い存在なのです。「自分は決してそのようになはならい」と誰が断言できるでしょうか。とするならば、ペテロは私たちの代表なのです。
 そのような私たちが心から「主よ、助けてください」と叫ぶなら、神は決して耳をふさがず、そのあわれみの豊かさをもって必ず助けてくださるのです。いえ、「待っておられた」と言っても差しつかないかも知れません。私たちが自分の力で歩もうとすると、それは必ず困難の障壁にぶつかり、沈みかけます。しかし神に助けを求め、神の力によって引き上げられ、共に進むなら、舟に乗り込んだ二人のように風は止み、勝利を得るのです。このペテロの水上歩行は、どんなに私たちが神の力によって歩まなければならないか、そのことを端的に教えてくれているのです。

 この結果、「まことにあなたは神の子です」とイエス様を拝する信仰告白を弟子たちはしてしまった。当時の感覚から言えば、これは人を崇めるわけで偶像崇拝です。明確に一線を超えてしまっているわけです。そのきっかけとなったのが、この水上歩行です。
 それまでイエス様がされたのは、①教えること、②罪を赦し悪霊を追い出して癒やすこと、そして③弟子訓練でしたが、④として一線を超えての告白に必要な大奇跡がこれであったことは明白です。
 皆さん、困難にあえぐ時、どうか「主よ、助けてください!」と叫びましょう。そして助けてくださった方に「まことにあなたは神の子です」と告白しましょう。自分の力で行おうとしたことを悔い改め、神に依り頼む、それが神のみ心です。



 

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