エリ、エリ、レマ、サバクタニ
✝マタイ 27章46節 2017新改訳
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
題名は古代のアラム語であり、意味は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。受肉して人の姿になられ、多くの人々を教え、癒やし、わざを現した神の子が、その結果として考えられないほどの苦しみを受けた挙句、十字架上の今際(いまわ)の際に、どうしてこのように遣わされた神から<見捨てられ>なければならないのか。多くのクリスチャンは理不尽に思い、不可解なことと受け取っているようだ。このような人は当然サタンからも狙われ、信仰が窮地に陥っているケースが多い。
結論から言えば、それは全人類の罪を背負われた贖いの意図を理解せず、 ペテロがイエスをなだめたような人間的な思考でこのことばを理解しようとした誤りである。処断され見捨てられたのはイエス様ではなく、人類の罪の方である。その罪は最も偽善家であるパリサイ人の代表によって告発され、時の権力によって血肉の命を奪うべく実行された。彼らはイエス様の血肉の死を目的にしたが、その霊に対しては無力である。私たちの罪を私たちの創造者である神ご自身がその責を取り、贖いのわざを果たされたのである。そしてイエスの名によって私たちの罪も十字架の贖いのわざを信じるなら、完全に赦されることになった。神がお見捨てになったのは、繰り返して言うが、人間の罪に対してであった。
だが、そのイエス様は最後の大声での叫びによって、血肉の使命を全うされた上、ご自身の霊を天の父の元にお戻しになった。人類の罪の全てを神は御子イエスに背負わされたまま葬られたのである。繰り返すが、それゆえ人はイエス・キリストを信じるだけで、その罪が赦されるのである。救いのわざのすべてが十字架によって「完了」したのである。
こうして真に自分の罪を自覚したクリスチャンにとって、その罪の身代わりとなってくださった十字架のイエス様の血潮は慕わしく、また狂わんばかりに十字架の血が自分の生きるいのちそのものとなっていることを自覚するのである。たとえ神を信じない人々からは「気味悪い」「吸血鬼」とか誤解されようと、私たちは意に介さないのである。この群れでよく賛美されるのが「尊き血潮を流された‥‥十字架の愛(一例8集60、救い主イエス」であるのは以上のような理由による。私たちはこの賛美を、これまで以上に声を大にして歌おうではないか。
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