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2021年10月

2021年10月31日 (日)

- 信じる-生きておられる神を

ヨハネ 2章23節   新改訳2017

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

 少し前の世代、私たちの祖父母たちの時代までは、ほとんどの人に何らかの信仰心があるのは当たり前でした。神が存在することを疑うことはなかったのです。自然への畏敬、超越的な存在、死後の霊的な世界が存在することは当然だったのです。その時代は神は神でも、どのような神を信じるのかが問題だったのです。つまり八百万の神々なのか、仏なのか、あるいはキリスト教の唯一神なのかが人々の関心事だったのです。キリシタンの迫害でも、信じることそのものは、当然だったのです。
 しかし科学の発展した現代は、そもそも神というものが存在するのかということが疑われています。少し前の世代からすれば、驚くべき不信仰の時代になっているのです。たとえ存在すると思っていても、多くの人は窮屈な思い、それは人を縛り、金銭を要し、自由を制約して来るかのような存在に見えるようです。ですから現代では最低限必要な冠婚葬祭時のみ、お世話になる時代になっています。そしてキリスト教のように、どんな時代であっても、毎日曜日教会に集うような緊密な宗教は、非常にごく限られた人々のものになっています。これはまさに、教会に来る人は神に選ばれた人であり、神の選びの厳粛さを表すものです。

 現代人にとっては自分の目に見える世界がすべてで、見えない世界は存在していないかのようです。つまり見える世界とは財産や金、また家族とかの絆などです。しかし事実は異なることを神が証明してくださっています。「しるしを見」たり「神からことばを受け、信じた」人々が居るからです。この時人は「神は生きておられる」「神は生きて、働いておられる」揺るがない確証を得るのです。しかしいかにもこれはごく稀なような気がします。どうしてでしょうか。求めないからです。

 聖書ではそのような人々の証しで満ちあふれています。一例を上げればペテロは長年猟師をしていて、決してあり得ない事象に遭遇しました。ナタナエルはいちじくの木の下にいたことを語られました。それぞれに不思議を見て、そして「信じた」のです。しかしこれらの決心も、ただ見て信じたようにありますが、体験し、あり得ない中に、主を信じ告白したのです。ただ頭の中だけで【主は生きておられる】とした信仰とは、根本的に土台が異なります。

 口で告白して私たちは信仰を持ちました。しかし耳学問ではなく、体験したのですから、これは揺るぎない確信になります。私はここはカリスマの教会ですから、このような神と直接交わり、神からの召命をもって、一つのみ体を形作って参りたいと思うのです。すべてを捨ててイエス・キリストに従う、一騎当千の信仰の強者となって参りましょう。

2021年10月24日 (日)

不正な管理人

ルカ 16章8節   新改訳2017

主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。

 このたとえ話は難解な箇所だと言われています。それは世の常識と天の父なる神のみ心と分けて考えないからです。この世の常識では、信頼されるべき職務の管理人が、不正を行なったというだけでも重罪であるのに、その上、解任の残された短い期日を使ってさらに主人の財産に損害を与えたというのは、更なる裏切りであって、言語道断な行為です。しかしそれを主人が「賢く行動したのをほめた」なんてことはあり得ないからです。
 しかし上記の8節から次の9節を見ていくなら、その意味がかなりわかってきます。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなった時、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」の 「富がなくなった時」とは自分が血肉の命を失った時のことであり、その時天国へは不正な富で多額の債務を減額された友が歓迎してくれる・・・という意味だからです。
 つまり<不正な富>とは文字通りに受け取るのではなく、<天の富>であって、それを正しく管理していなかったことが<不正>だったことになります。この管理人の富の使い方は、一言で言えば神のみ心に反していたということなのです。

 私たちは自分の財産やそれを産み出すもの・・・富を世において持っていたとしても、それらは神から委ねられたものであって、真の自分のものではありません。そしてこの委ねられた富をいかに用いたかということが、ある意味、天への道を左右するものとなるのです。
 同じ章で語られた「金持ちとラザロ」の話では、金持ちが死んで、彼は黄泉の国の熱い炎で苦しめられていました。彼がここで苦しむ理由として聖書で分かることは一つしかありません。貧しく重い皮膚病人だったラザロは、金持ち宅の門前で寝ていて、その「食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた」とあるだけです。ラザロは犬がもらえる残飯でも欲しかったのですが、そのことは犬からさえも同情されていたことしか知ることができません。ここで読み取れるのは、金持ちの<あわれみの心の無さ>です。門前に居たラザロに金持ちが気づかぬことはあり得ません。それにもかかわらず彼は何も助けようとはしなかったのです。
 金持ちの彼にとって、ラザロは隣人と見なさなかったのでしょう。しかし良きサマリヤ人で語られているように、この金持ちは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」の律法に明確に違反しているのです。そのように考えるなら、この不正な管理人が窮地に陥ってですが、負債の減額に天の富を用いたことは<ほめられる、賢い>ことだったのです。

2021年10月17日 (日)

贖い出される

ガラテヤ 3章13節  新改訳2017

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです

「あがない出される」とはすなわち、犯した罪を代償物を出してつぐなわれ、それで助け出されることです。そこで「あがない出された」者は、当然自分の罪を十分知っており、その代償物をも知っています。もちろんその代償物とはイエス・キリストです。

 しかし自分の罪がわからない人は、あがなわれていることが分からないので、縄目が解かれ、獄を出て行くことができるのに、未だその中に留まっているのです。つまりあがなわれておられないのです。このような方はその血肉の体と共に滅びます。
クリスチャンと称される方であっても、ガラテヤ5章16~21にあるような未だ肉のわざの働きが内心にあれば、未だ獄内ということになるので、裁きの時には外の暗闇に放り出されるおそれがあります。
 ともあれ、真に自分の罪を知っており、十字架の恵みによってあがない出された者は、常に救われた感謝と喜びの中にあります。つまり十字架は祝福の土台なのです。罪のことを申しますと、まるで暗い呪いの中に落とし込むように、これを忌避される方がおられますが、そのような方はご自分の罪がわかっておられないということになります。

 ここで一つ分かりにくい御言葉が、本日の聖書箇所にあります。
ご自分が私たちのために呪われた者となることで、わたしたちを律法の呪いからあがない出して」の≪律法の呪い≫という言葉です。律法の中での最高規範をイエス様は第一に「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして主を愛すること」、第二に「隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:36-40)と語られましたが、本当にそれが文字通りにできて、実際に行っているかどうか、です。皆さん、自分は行っていると言えるのであれば、その人に≪律法の呪い≫はありません。どうでしょうか? もし私のように自信を持って「行えていない」のであれば、律法に呪われています。しかし誉むべきかな、私たちには十字架の赦しがあります。このできない呪い・・・罪を主があがなってくださったのです。
 ハレルヤ!そのことを「律法の呪いからあがない出して」とパウロは語ってくれているのです。そしてあがなわれた私たちに<御子の御霊>を遣わされ、み心を行う者としてくださり、遂には子としてくださるのです(ガラテヤ4:5-7)。感謝します。

2021年10月10日 (日)

主は生きておられる

Ⅱ列王記 4章30節   2017新改訳

その子の母親は言った。「【主】は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。

 この上記の告白はシュネムの女がエリシャに、わが子を生き返らせるよう懇願した際の言葉です。「主は生きておられる」、この言葉は、神、主をリアルに実際に体験しなければ言えない言葉です。神を体験する、これは神の一方的な主権による顕現であって、これを受けた人にとって、それまでの自分の人生観や価値観が、その瞬間、決定的に変容せざるを得ないのです。しかしこのような体験は「聖霊のバプテスマ」は聞き及んでも、現代では余り聞くことがありません。果たしてそれでいいのでしょうか。

 聖書ではどのように描かれているのでしょうか。先ずこのシュネムの女ですが、夫がすでに高齢で、子を持つことをあきらめていたようです。しかしエリシャは「来年の今頃、あなたは男の子を抱くようになる」と預言し、実際それは成就しました。まるでアブラハムの妻、サラの事例のようです。この女性は「主は生きておられる」ことを体験しているのです。この言葉はエリヤやエリシァだけでなく、ギデオン、サウル王、ダビデ、エレミヤなど旧約では多くの人物が口にしました。彼らは皆、神の生きておられることを体験し、主に用いられた人生を歩んだのでした。

 「主は生きておられる」ことを体験するなら、それまで神は自分の思いやイメージ、観念の中にボヤーッと知識の中にあったのですが、その瞬間に現実の神とは、力ある唯一の権威と圧倒的な力、創造者にして真に贖い主であることが分かるのです。現れ方や伝え方はそれぞれに適応したものとなるでしょうが、最終的には一人ひとりに神の愛のメッセージが注がれるはずです。少なくとも私はそうでした。その愛の渦の中で呆然としながら、ただ強い感動で涙が止まらないのです。
 これを強いて言えば少し異なりますが、今はもう古い話、中国残留孤児が日本に来て、実の親にはじめて対面できたような感じでしょうか。

 「主は生きておられる」体験をした人は、マタイ 13章44節のようです。隠された宝を畑の中に見つけ、喜びのあまり、持っている物すべてを売り払い、その畑を買うようなものです。自分の持っているもの全部を売り払って、神に捧げたくなってしかたがありません。それほどのこの体験は余りにも恵みであり、今自分が生きている意味とその目的をも知る事になるのです。信仰の確信が持てない、クリスチャンとして本当に自分は実をつけて、良い地なのだろうか。そう悩んでいる方は真剣に、深い悔い改めの中から、神のあわれみによってこの恵みを受けていただきたいと思います。

2021年10月 3日 (日)

いやし

イザヤ 53章5-6節   新改訳2017
 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 イエス・キリストは「信じていない人々から」ではなく、民族全員が信じ、待ち望んでいたはずの人々から罪人とされ、苦しみを受け、捨てられました。その権力者たちからは自分たちの地位を脅かす危険な存在だとされ、民衆・・・イエスによって赦され癒やされた多くの人々・・・からは期待外れだとして、嘲られたのです。人々をあわれみ、愛そうと天から降りて来られた我らの聖なる造物主に、これほど最悪で悲劇的な結果があるでしょうか。しかし主はほむべきかな、最悪を神は最善に変えてくださりました。Healing_20211010034601
 イスラエルの民は<自分が期待しているメシア像と異なっていた>のでイエスを捨てたのですが、今日のクリスチャンにもそっくり同じことが言えます。使徒時代には当たり前であった聖霊のバプテスマを、どうして現代のクリスチャンは受けられないのでしょうか。衝撃的な表現をすれば、あの十字架につけた時代と今も変わりなく、神を自分の利己目的実現のために利用しようとしているからです。神のみ心を行おうとしなければ、結局のところ、十字架上のキリストに向かって「降りて来い、そうしたら信じよう」と叫んだ人々と大差はありません。

 このことは癒やしについてもまったく同じことが言えます。癒やしはまず第一に神がみ心によって行われるものです。聖書の理解で言えば、病の多くは罪が原因であり、特に心の病ではそれが顕著です。ですから真に癒やしを受けるためには、まず神との関係を正しくしなければなりません。神が今も生きて働かれていることを認め、自分の高慢と罪を認め、徹底して悔い改め、ひたすら神のあわれみにすがらなければなりません。

 癒やしはこのように信仰によって受ける恵みです。どんな時代でも、信仰が無ければ癒やしは起こりませんでした。イエス様も、不信仰な郷里ナザレではほとんど力あるわざは行われませんでした。またどんなに信仰があっても、み心の故に癒やしが行われない場合もあります。しかしその場合、神がその理由を答えてくださることでしょう。「わたしの恵みはあなたに最善である」と。
 実は癒やしの最大最高なものは、神を心から信じる事ではないでしょうか。その時、もはや癒やしなどは超越してしまっていて、どうでも良いことになっているのでしょう。どんなに癒やされたとしても、人の体は100年もありません。そうではなく、霊の人となって、永遠に神の国で永遠に生きるとしたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。

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