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2021年10月 3日 (日)

いやし

イザヤ 53章5-6節   新改訳2017
 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 イエス・キリストは「信じていない人々から」ではなく、民族全員が信じ、待ち望んでいたはずの人々から罪人とされ、苦しみを受け、捨てられました。その権力者たちからは自分たちの地位を脅かす危険な存在だとされ、民衆・・・イエスによって赦され癒やされた多くの人々・・・からは期待外れだとして、嘲られたのです。人々をあわれみ、愛そうと天から降りて来られた我らの聖なる造物主に、これほど最悪で悲劇的な結果があるでしょうか。しかし主はほむべきかな、最悪を神は最善に変えてくださりました。Healing_20211010034601
 イスラエルの民は<自分が期待しているメシア像と異なっていた>のでイエスを捨てたのですが、今日のクリスチャンにもそっくり同じことが言えます。使徒時代には当たり前であった聖霊のバプテスマを、どうして現代のクリスチャンは受けられないのでしょうか。衝撃的な表現をすれば、あの十字架につけた時代と今も変わりなく、神を自分の利己目的実現のために利用しようとしているからです。神のみ心を行おうとしなければ、結局のところ、十字架上のキリストに向かって「降りて来い、そうしたら信じよう」と叫んだ人々と大差はありません。

 このことは癒やしについてもまったく同じことが言えます。癒やしはまず第一に神がみ心によって行われるものです。聖書の理解で言えば、病の多くは罪が原因であり、特に心の病ではそれが顕著です。ですから真に癒やしを受けるためには、まず神との関係を正しくしなければなりません。神が今も生きて働かれていることを認め、自分の高慢と罪を認め、徹底して悔い改め、ひたすら神のあわれみにすがらなければなりません。

 癒やしはこのように信仰によって受ける恵みです。どんな時代でも、信仰が無ければ癒やしは起こりませんでした。イエス様も、不信仰な郷里ナザレではほとんど力あるわざは行われませんでした。またどんなに信仰があっても、み心の故に癒やしが行われない場合もあります。しかしその場合、神がその理由を答えてくださることでしょう。「わたしの恵みはあなたに最善である」と。
 実は癒やしの最大最高なものは、神を心から信じる事ではないでしょうか。その時、もはや癒やしなどは超越してしまっていて、どうでも良いことになっているのでしょう。どんなに癒やされたとしても、人の体は100年もありません。そうではなく、霊の人となって、永遠に神の国で永遠に生きるとしたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。

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