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2021年11月

2021年11月28日 (日)

コミットメント(Commitment)

エレミヤ 29章11~13節   新改訳2017
 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている ーのことば─ それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

 コミットメント(Commitment)とは、一般的に関わりあいとか公的な誓約の意味です。が、本日は英語の委託、委任、引き渡し、投獄などの明け渡しの意味で用います。

 まず、私たちクリスチャンは神さまに自分自身をコミットメントしなくてはなりません。神さまは平安や未来と希望を与えるために私たち一人ひとりを創造されているのです。ですから神さまに自分自身を喜んで捧げ、明け渡し、コミットメントしなければ、その造られた真の恵みを享受できないばかりか、制御できない自分自身に苦しみ続け、とどのつまり罪に縛られ滅びの道を歩むことになるのです。

 しかしあまりにも罪の中に生き続けているので、私たちはどれほど自分がどれほど罪の中にいるのか分かっていない場合がほとんどです。つまり多くの方は次のように考えます。「自分は自分のもので、コミットメントなんて意味が分からない」とか、「大人になってようやく親などに左右されない生き方、自己実現できているのに、何を好き好んでコミットする必要があるの」とかです。

 しかし真実は真逆です。私たちはコミットメントし、神に委ねてみてはじめて罪をはらみ、産み出す欲がどんなものであるかを知ることができ、真に自分自身を解放できるのです。それは不思議なパラドックスであり、逆転です。しかしながら、信仰告白をし、バプテスマを受けたクリスチャンであっても、この世の人と何ら変わらない肉欲、物欲の世界に生きている人が何と多いことでしょうか。そのような人はコミットメントがされていないからなのです。クリスチャンの醍醐味・・・・を地上で送らずして、どうして天の国で神に喜ばれることができるでしょうか。日曜日の午前中だけ、やっと教会の礼拝に加わる、献金も十分の一に不十分で、心の中の思いは、すべてこの世のことである・・・・どうしてこのような可方が健全なクリスチャンだと言えるのでしょうか。神を信じる者は、富と神とに兼ね仕えることができないのです。

 本当に神を信じる人とは、自分の理性、思考や人間的な判断、あるいは事細かな嗜好の部類にまで、神に明け渡す決心をし、その実現を祈り続けている人に他なりません。決心と言いましたが、十分にできているかどうかは別の問題です。ただそのように志向して心から祈り求めている、それが土台ですし、そのような決心した人のことを言っています。その人はやがて、聖霊なる神の恵みに与り、その圧倒的な威光の前に、自分のすべてを差し出し、投げ出させずには居れなくなリます。この世で最も神を愛するようになるからです。少なくとも私はそのように変えられました。

 私たちの創造主だけが自分の人生の最善を知っておられ、最善を知っておられる方に自分をコミットしましょう。それはあなたを解放させ、回復させ、平安をもたらすことでしょう。

 

 

 

 

2021年11月21日 (日)

伝道師按手・任命式

Ⅱテモテ 4章1~5節   新改訳2017

1 神の御前、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前、その現れとその御国を思いなが、私は厳かに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽く、、絶えず教えなが、責、戒、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。

本日伝道師の按手を受けられる稲村姉妹について、確かイスラエル派遣の中で姉妹とはじめてお会いしたと思いますが、しばらくして、今日のように深く関わり合うようになるという主の示しがありました。他教会の方ですし、住まいも、家族の状況もありました。ですからこれは「あり得ないし、もし実現したらそれは、神のわざでしかない」とその時は思いました。それで、このことは一旦忘れることにし、できるだけ私は動かないようにすることにしました。
 ただ一度だけ、ご主人の召天後、これも示されてですが、群馬のご自宅に伺ってお片付けや庭掃除のお手伝いをしたことがあります。しかしその後、姉妹は不思議な身辺のいろいろな事があって、私たちの近くの教会に移動されるということがあり、牧師夫人との関わりが増し加えられ、ゆっくりですが、私たちとの距離が近くなって行くのです。これは不思議でした。
 今回の伝道師、その就任に決定的だったことが二つあります。一つは、向こうで引っ越しされてまだ間がないのに、この教会の二階に住む計画に手を上げてくださったことです。ご存知のように、この会堂の二階部分への住み手なくしては、この家を借りることは不可能だったのです。「どうして手を上げたのか自分でも分からない」という本人の言葉でした。コロナ禍の中、私たちの礼拝場所が守られたのは、この姉妹の手を上げられた瞬間から大きく前進したのです。
 二つ目は神学校を卒業されると言うことでした。何しろこの教会に来られた頃は、神学校を続けることを半ば諦めておられました。伝道師への任命・按手に神学校の「卒業」が必須だと言っているわけではありません。しかしそのような示しが来たのです。「卒業して按手・任命を」と。それで学びを再開するよう勧めますと応じてくださり、それから1年以上かかってこの十月、姉妹は卒業に必要な全単位を取得されたのです。
 最後の難関は、姉妹が伝道師になることを承諾してくださることでした。これもはじめは消極的な様子でした。しかしずいぶん祈られたのでしょうか、または神様の強い迫りがあったのか、つい最近、応じても良いという返事をいただき、そこで急きょ按手式を本日することに致しました。
【宣言】
 教会のかしらである主イエス・キリストは牧師・伝道師を立てて、福音を宣べ伝えさせ、ご自身の《血であがないとられた神の教会を牧させ》なさいます。
 TLEA船橋キリスト教会の牧師、ケパ中村は、教会員(アンナと示された)稲村いづみ姉妹を船橋キリスト教会の伝道師として立てることを主から示されていました。これが神から来た吟味のポイントとして、姉妹が神学校を卒業した時点で任命するよう、主から導かれておりました。
 今姉妹は卒業に必要な単位を修得し、私はここに、当教会の伝道師として姉妹を任命いたします。この日以後牧師を補佐し、牧会伝道師に次ぐ霊的な指導者として、教会に深く重荷を持つ働き人・奉仕者として、姉妹を伝道師に按手し任命します。


 

2021年11月14日 (日)

2022年度聖句

2022年度ガリラヤ湖畔新年礼拝でパウロ秋元牧師の年間聖句のメッセージを、ケパ中村牧師がさらにわかりやすく要約しました。

今年度の年度の御言葉 ヨハネ14章12節  第3版

「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとへ行くからです」である。

 聖書で用いる「わざ」という言葉には、神による意図的で、かつ奇跡のような超自然的な行いの意味で用いられている。ここでの節には次の三つのポイントがある。
 (1)キリストを信じる者はキリストのわざを行う・・・秋元牧師はこれを「キリストがこの世に来られた時に、多くの人を癒やしたり、奇跡を行ったり、解放を行ったことを指す」と説明された。つまりクリスチャンは、キリストがされたようなわざを行うようになるのである。しかしそれは、<キリストのわざはキリストがされる>と秋元牧師が幾度も指摘されたように、わざの実現者は人を通して神が行われるのであって、人が実質的には何の力もないことを肝に銘じなければならない。クリスチャンならば、この点に異論を唱える方はいないはずである。
 私自身も過去、癒やしの祈りをして、その実現を経験したことがある。その時私は非常に良い気分、高揚した状態になった。しかしそれは神の栄光であって、神をほめたたえ、畏れることはあっても、少しでも自分の手柄のように喜ぶなら、それは大きな誤りであったと今では思う。私たちは神のわざの管に過ぎず、ただ通りよい管に徹することが非常に重要である。

 (2)「またそれよりもさらに大きなわざを行います」・・・ここがもっとも誤解されている箇所である。文字通りに読めば「キリストもできなかったような、すごいわざを私たちクリスチャンが行うようになる」と理解してしまう。例えばラインハルト・ボンケはアフリカで7900万人をキリストに導いた。これはキリストが為し得なかった数字である、などと。

 しかし秋元牧師が「キリストのわざはキリストがする」原則から見れば、このような成功も、(1)番の通り、キリストが働いてくださった故の大収獲である。ボンケではない、キリストが働かれた故の大収穫であり、勘違いしてはいけない。従って「大きなわざ」とは、キリストが意図された<(神の計画の)大きな進展がこれから始まってくるぞぉ>の意味であると秋元牧師は語られたのだった。
 
 (3)以上を受け取った上で私は個人的に、さらに次の(3)「わたしが父のもとに行くからです」の言葉を注視したいと思った。ここでのすべてはイエスさまが十字架に架かり、復活して、ペンテコステの日に聖霊が注がれてから始まるわざである。聖霊を通して働かれるわざに、聖霊さまが単に内住されるだけでなく、その日までにクリスチャンが聖霊さまに、<徹底的に聞き従うしもべとなって>いなければ、話しにならないではない。今の時はその猶予の時であり、いつ来ても良いよう、今は器として整えられている時、これに集中しなければならないことを強調する

2021年11月 7日 (日)

罪と病

マタイ 9章2節   2017新改訳

すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた

 天上から中風の男が吊り下げられて来た。吊り下げて降ろすといった非常識なことをするこれら男たちは、イエスさまの癒やしを信じ、何としてでもこの中風の男が癒やされることを期待してであった。それに対してイエスさまが「あなたの罪は赦された」と語られた時、その時点では期待された目に見える形で肉体上の癒やしが起こったわけではなかった。しかしこの根源的な癒やし・・・「罪は赦された」のことばは激しい副作用を伴った。その場に居た律法学者たちにとって、自分を神と等しいものとする「冒涜」にしか聞こえず、彼らの怒りを買うものだった。
 それでイエスさまは、「冒涜」に対する反証として、目に見える形での癒やし、中風の癒やしを行われたのだった。

 ここで二つの疑問が湧き起こる。一つは中風の癒やしを求めて来たのに、その答えは「なぜ『罪の赦し』なのか」と言うこと。次に、律法学者たちの「冒涜」視がなかったなら、この場での癒やしが行われなかったのだろうか?という疑問である。

 この中風の男は何を求めていたのか?それは記されていないので確かなことは分からない。しかし私は主を少しだけ存じているので、男が何を求めていたのか、想像することが出来る。それは「罪を悔い改めており、その赦し」だったと。神は頓珍漢なことは決してされない。その人の心の中を完全に見通され、最善をもって応える方である。ならばこの男が吊り下ろされていく時、このように思い、願っていたと私は推察するのである。肉体の癒やしは一時的なものに過ぎない。また少し年を経れば、私たちの肉体は朽ち滅んでいく神から預かった仮初めの宿である。しかし魂の救い、罪の赦しは永続的な、真に価値のあるものである。この男はその良い方を求め、祈っていたはずである。星野富弘さんという方がいる。星野さんも信仰に比べ、肉体の癒やしを望まなかった証人である。

 群衆や律法学者たちは霊的に盲目の人たちであった。もし「罪の赦し」が「病の癒やし」と関わりないことで、この中風の男が癒やされなかったとしたら、彼らはイエスさまがされた根源的な癒やしを悟ることができなかった。それゆえに、「『あなたの罪は赦された』と語られ、言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問われ、続いて「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と言われながら、この男の中風を癒やされたのだった。癒やしはまさに、主ご自身が明示された<あなたがたが知るために>なのであった。

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