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2021年11月 7日 (日)

罪と病

マタイ 9章2節   2017新改訳

すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた

 天上から中風の男が吊り下げられて来た。吊り下げて降ろすといった非常識なことをするこれら男たちは、イエスさまの癒やしを信じ、何としてでもこの中風の男が癒やされることを期待してであった。それに対してイエスさまが「あなたの罪は赦された」と語られた時、その時点では期待された目に見える形で肉体上の癒やしが起こったわけではなかった。しかしこの根源的な癒やし・・・「罪は赦された」のことばは激しい副作用を伴った。その場に居た律法学者たちにとって、自分を神と等しいものとする「冒涜」にしか聞こえず、彼らの怒りを買うものだった。
 それでイエスさまは、「冒涜」に対する反証として、目に見える形での癒やし、中風の癒やしを行われたのだった。

 ここで二つの疑問が湧き起こる。一つは中風の癒やしを求めて来たのに、その答えは「なぜ『罪の赦し』なのか」と言うこと。次に、律法学者たちの「冒涜」視がなかったなら、この場での癒やしが行われなかったのだろうか?という疑問である。

 この中風の男は何を求めていたのか?それは記されていないので確かなことは分からない。しかし私は主を少しだけ存じているので、男が何を求めていたのか、想像することが出来る。それは「罪を悔い改めており、その赦し」だったと。神は頓珍漢なことは決してされない。その人の心の中を完全に見通され、最善をもって応える方である。ならばこの男が吊り下ろされていく時、このように思い、願っていたと私は推察するのである。肉体の癒やしは一時的なものに過ぎない。また少し年を経れば、私たちの肉体は朽ち滅んでいく神から預かった仮初めの宿である。しかし魂の救い、罪の赦しは永続的な、真に価値のあるものである。この男はその良い方を求め、祈っていたはずである。星野富弘さんという方がいる。星野さんも信仰に比べ、肉体の癒やしを望まなかった証人である。

 群衆や律法学者たちは霊的に盲目の人たちであった。もし「罪の赦し」が「病の癒やし」と関わりないことで、この中風の男が癒やされなかったとしたら、彼らはイエスさまがされた根源的な癒やしを悟ることができなかった。それゆえに、「『あなたの罪は赦された』と語られ、言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問われ、続いて「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と言われながら、この男の中風を癒やされたのだった。癒やしはまさに、主ご自身が明示された<あなたがたが知るために>なのであった。

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