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2021年12月

2021年12月26日 (日)

キリストにある者

✝ ローマ 8章1節   2017新改訳

 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

「私たちはイエス・キリストを信じます」と言い、洗礼を受ければクリスチャンとして、聖書にある永遠のいのち などを受けた者として歩んでいます。しかしその根拠とされている聖書であるローマ人への手紙8章を通りいっぺんではなく、きちんと読むなら、そこに限定があることは自明のことです。
つまり、「主(キリスト)にある者」という言葉であり、それはクリスチャンと言っても、「キリストの内にいない者」がいることへの但し書きとして挿入されていることです。これはこの章の続きを読めば、具体的に書かれていることから明らかです。つまり、聖霊が内住し、その人が聖霊を主とし、聖霊に聞き従って歩むなら、その人は「主にある者」なのです。しかしそうでない人、信じる前とほとんど変わらず、相変わらず自我が中心であって、肉の思いを持ち、妬みや欲情、独占願望を抱いている者は、聖霊が内住しているとは言えず罪の中にある、つまり真のクリスチャンであるとは言えないと説いているのです。

肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。ローマ 8章5~6節

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。ローマ8章9~10節

しかしそうは言っても、まだ望みがあります。なぜなら十字架によって、人の魂と霊が救われることだけは少なくとも知っているからです。ですからこれから試練や困難という、自我を滅ぼすチャンスに最も近い位置に立っているからです。神にとっては不可能はありません。主が導かれるならば、明日にでも救いが来ることでしょう。キリストの御体なる教会の恵みは大きいのです。自分が主から「哀れまれるべき存在」であることを心から理解し、告白するならば、どんなに天に大きな喜びが来ることでしょうか。

2021年12月19日 (日)

預言-神から受けて語る

Ⅱペテロ 1章21節   2017新改訳

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

 神に用いられる人物は必ず大きな試練を受けている。聖書中の偉大な人物は例外なく。アブラハムは75才で行先を知れず旅立ちました。モーセは王族の育ちと身分であったのに、自分こそがイスラエルを救えると高慢さのゆえに、80歳になるまでの40年間、ミディアンの地で雇われ牧者として過ごしました。この希望の無い惨めな逃亡生活こそ、神が与えられた試練です。ダビデもサウル王から理不尽な仕打ちを受け続け、荒野の中、あるいは敵国へと辛い逃亡生活を送りました。パウロに至っては<2コリ11:23-27>にある通りです。
これは徹底的に自我を砕き、肉なき魂に変えられない、ご自分のものとされるためでした。そうでなければ、返って大きな災いに置かれるのです。

 聖霊の恵を受けても、それは永久的に自分の内に住まうと思ってはなりません。ダビデを殺そうと執念を燃やしたサウル王は王になる時、偉大な主の器サムエルから油注がれ、聖霊を受け、預言を語りました。しかし彼は試練を受けていませんでした。このサウルが後年、神の言葉に対して聞き従いができず、肥えた家畜をぶんどってしまい、主は王にしたことを悔やまれたのです。またエルサレム 教会の指導者ヤコブは、ペテロのような主からの訓練を受けてはいませんでした。ひょっとして主の兄弟という肉の力でなったのであって、彼らは公生涯を送られる主イエスの迫害に近かったのです。エルサレム教会は割礼問題でパウロたちを苦しめ、最終的にはローマによって滅ぼされる教会となりました。

 このように、サウル王などにあるように、いかに訓練が大切かを私たちは教えられるのです。それゆえ私は現在試練や困難を受けている方に申し上げるのです。「オメデトウ、主に愛された人よ」と。

 預言は基本、言いたくない類の言葉であり、言えば自分がまずい立場に陥りそうで、実際語る時には喉がカラカラに乾いたようになり、非常に勇気がいるものです。忠実に聞き従って神の言葉を語るためには、自我が残っていてはなりません。自分の努力では自我を無くすなんてことはできません。ただ、ただ一つ、神から来る試練困難だけがそれを可能にするのです。ですからかつて、耐え難い試練や困難から無私となり、神に自分を捧げて聖霊を注がれた身ならば、試練困難こそ何ものにも替えられない宝であって、それは神の愛であることを、はっきりと証するのです

2021年12月12日 (日)

神のことばで生きる

マタイ 4章4節   2017新改訳

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

「世の中の一番大きな誘惑は、私たちが見たまま、感じたままを話すことです」(J・Meyer)。一見聞いただけでは、反発すら覚えられる言葉です。それも当然。文科省は小学校の教育目標として「自ら判断し行動するために必要な基礎的な力自分の考えや意見を持つ」ことを教育目標にしてさえいます。しかしこれは、キリスト教徒としては、当然のことであり、神を信じていると称している多くの肉のクリスチャンへの警鐘です。

 イエスさまがサタンの誘惑にあった最初は、四十日四十夜という断食直後、空腹を覚えられたタイミングで、サタンが現れ『「あなたが神の子なら石をパンに変えなさい」、それを行って自分が神の子であることを証明しなさい』と言う試みをしました。もしイエス様が己れの空腹に耐えかね、石をパンに変えようものなら、どんなことになったことでしょうか。それは肉欲を神の力で以て満たし、満足したことを意味します。もちろん主はそんなこと、お茶の子さいさいでできたことでしょう。しかしそれでは神が肉の誘惑に負けたことになり、人の創造の根本理由、「人は・・・神のことばで生きる」創造の御業を否定することになるのです。

 人は生物学的には生きていようと、そのままでは罪のままであり、霊的には死んでいる存在であると、聖書ははっきり宣言しています。次に重要なのは、最後の「・・・と書いてある」と言う言葉です。たとえクリスチャンだと称していても、己の肉の欲求ばかりを満たし、神のことばを無視し続けて命を終えるならば、その後、神の御前に立った時、どうやって弁明するのでしょうか。それは極めて困難です。イエスさまは自分の考えではなく、神の言葉、聖書でお答えになりました。まして被造物たる人間が聖書の言葉に立って生きなければなりません。

 私たちは十字架の恵みに与りました。しかし本来、十字架は罪を赦し、聖霊様がお住みになれるようにするためでした。それなのにきれいにお部屋を掃除したままになっていると、出て行った悪霊がさらにたくさんの悪霊を連れてきて、事態はもっと悪くなるのです(マタイ12:42-45)。これは今日の多くのクリスチャンの状態を指して言っています。内住される聖霊様が単に内住されているのではなく、その人の頭として実際に働かれ、指図されていることが決定的に重要です。私たちの主は、私たちの中に生きて働かれる主でなければなりません。これほど申しても、私がなにを語ろうとしているのか、まったく分からないクリスチャンがいます。聖霊の満たし、バプテスマを受けていないからです。どうか先ず、それを求めて頂きたいと思います。その時はじめてその人は、サタンの支配から解放されて神のものとなり、自我から解放されて自由を得るのです。サタンに支配され肉のまま滅びるか、神に自分を明け渡して永遠のいのちと自由を得るか、そのどちらかしかないのです。

2021年12月 5日 (日)

本当の自由

ヨハネ  8章34節   新改訳2017

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」

 罪に支配され、その奴隷になっているのに、そのことを自覚しないで居る人が多い。クリスチャン以外のこの世の人々とは、そう言う人々がほとんどだ。逆にクリスチャンでなければ、芥川や太宰のように自殺するか、または精神を犯されてしまう結果になりはしないだろうか。キリスト教は、罪の自覚が無い人、または乏しい人には関わりの無い宗教である。

イエスは彼らにこう言われた。

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。マル2:17】

 今一度振り返ろう。私たちはキリストを知る前に、この世で正しく生きることができていただろうか?いや却って自分自身を持て余し、理想にほど遠い現実の自分の姿に、ほとほと参ってしまっていたのではないだろうか。大人になる前、理想と高慢、繰り返す自己嫌悪のサイクルに果てしなさを覚え、不安が絶えず自分を襲って来ていたのは、私だけのことだったのだろうか。大人になると多少世界が広がって見えるようになり、そんな自分を他と比べてまだ良い方だと、変な納得をして、自分を蔵にしまい込んだだけなのではないだろうか。それはふつふつと自分の地の底でたぎっているにもかかわらず、である。私たちは本能的に知っている、このままでは自分は永遠の良い所には行けない、と言うことを。ただその解決の道を知らず、それをいいことにしてそのための努力を払いたくないだけなのです。

 ここに大きな真理、しかもパラドックス(背理)の真理があります。みな自分が唯一無二の大切なものなのですが、それを捨ててこそ解放され、真理に到達するのです。つまり自分自身の理性、自己決断、思いや望み、決めることをすべて神に捧げて、委ねる。そのように自己の主体を神に明け渡してこそ、自分を逃れた真の自由を得る・・・言ってみれば簡単なことなのですが、経験から言ってこれは本当に真実なのです。どうして神様の奴隷になることが、かえって自分自身から自由になることなのでしょうか。ましてそのように自分の主体を神に捧げ委ねる・・・ことが自分の力では、いえ人間の能力の範囲を超えていて、人にはできないことだとしたら、どうでしょう。つまり一旦キリストの神に降伏して、その十字架の愛を信じ、神のその力によってでないと、神に自分を明け渡すことは不可能なことなのです。

 ただし明け渡す相手が三位一体の真の神様でなければ、結果はもっと悲惨なことになるのですが。「神様、感謝いたします。あなたの愛とあわれみに」そのように私たちは気づかされ、思い、心からの感謝をもって祈るのです。

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