預言-神から受けて語る
✝Ⅱペテロ 1章21節 2017新改訳
預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。
神に用いられる人物は必ず大きな試練を受けている。聖書中の偉大な人物は例外なく。アブラハムは75才で行先を知れず旅立ちました。モーセは王族の育ちと身分であったのに、自分こそがイスラエルを救えると高慢さのゆえに、80歳になるまでの40年間、ミディアンの地で雇われ牧者として過ごしました。この希望の無い惨めな逃亡生活こそ、神が与えられた試練です。ダビデもサウル王から理不尽な仕打ちを受け続け、荒野の中、あるいは敵国へと辛い逃亡生活を送りました。パウロに至っては<2コリ11:23-27>にある通りです。
これは徹底的に自我を砕き、肉なき魂に変えられない、ご自分のものとされるためでした。そうでなければ、返って大きな災いに置かれるのです。
聖霊の恵を受けても、それは永久的に自分の内に住まうと思ってはなりません。ダビデを殺そうと執念を燃やしたサウル王は王になる時、偉大な主の器サムエルから油注がれ、聖霊を受け、預言を語りました。しかし彼は試練を受けていませんでした。このサウルが後年、神の言葉に対して聞き従いができず、肥えた家畜をぶんどってしまい、主は王にしたことを悔やまれたのです。またエルサレム 教会の指導者ヤコブは、ペテロのような主からの訓練を受けてはいませんでした。ひょっとして主の兄弟という肉の力でなったのであって、彼らは公生涯を送られる主イエスの迫害に近かったのです。エルサレム教会は割礼問題でパウロたちを苦しめ、最終的にはローマによって滅ぼされる教会となりました。
このように、サウル王などにあるように、いかに訓練が大切かを私たちは教えられるのです。それゆえ私は現在試練や困難を受けている方に申し上げるのです。「オメデトウ、主に愛された人よ」と。
預言は基本、言いたくない類の言葉であり、言えば自分がまずい立場に陥りそうで、実際語る時には喉がカラカラに乾いたようになり、非常に勇気がいるものです。忠実に聞き従って神の言葉を語るためには、自我が残っていてはなりません。自分の努力では自我を無くすなんてことはできません。ただ、ただ一つ、神から来る試練困難だけがそれを可能にするのです。ですからかつて、耐え難い試練や困難から無私となり、神に自分を捧げて聖霊を注がれた身ならば、試練困難こそ何ものにも替えられない宝であって、それは神の愛であることを、はっきりと証するのです
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