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2022年1月

2022年1月30日 (日)

金よりも高価で尊い

Ⅰペテロ 1章7節   2017新改訳

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

 神を知ることは人の意志や努力である程度可能でしょう。しかし知り得た知識や情報だけでは、本当に信じる(クリスチャンになる)ことは不可能です。なぜなら信仰は人知を越えたものだからです。例えば、イエス・キリストが処女から生まれたという出生の奇跡。湖の上を歩き、嵐を静め、二匹の魚と五つのパンだけで五千人の人々に食べさせ、かつ相当余った奇跡。また中風や足萎えの人、生まれつき盲目の人を瞬時に癒やした癒やしの奇跡。死んで四日も経ってしまい、腐敗の臭いの中、ラザロという人物を蘇らせ(他にも二人)た奇跡。極めつきは十字架で葬られたはずなのに、三日目に御霊のからだという、血肉のからだを超えた驚くべき姿で現れたことでしょうか。これらあり得ない理解を超えた多くのキリストのワザを奇蹟を、実際に起こったと信じなければならないからです。これらは人の常識や理解の限度を超えていますので、信じることを信仰と呼びます。逆に言えば奇跡が踏み石になって、私もバプテスマを受けたものの、三十年もクリスチャンと称しながら、不信仰な世界を漂流していたのです。

 人が信仰を持つには、自分の常識、知る力、判断力などを捨てなければならないことは明白ですが、それは人の力ではできないことで、これを「自分に死ぬ」と申します。ではなぜ信仰を持てるのか?それは神による「試練」に耐え、自分の罪を徹底的に知らされ、自分に希望を失い、そのどん底の中で自分の命をはるかに優った神の愛を、聖霊によって知らされたからに他なりません。神によって絶望的な罪人状態であることを知らされることは、逆に神の驚くべき圧倒的な愛の価値に自分を遷移することができます。これが神による試練の実態です。この試練の恵は、全知全能なる神だからできることであって、人の高ぶりや我慢の限界、限度を本人よりも見極めておられる神でしかできないことです。

 この試練はその人の価値観、人生観、生きる目的を180度変えます。変えられていなければ、それは神から来た試練ではありません。試練の結果は明白です。自分のいのちは神のものであり、神の栄光のために残りの余命があります。そして目は永遠なる神に向けられ、それを仰ぎ続けて、神の御心にすべて従います。この地上の何ものも、以前のように自分を楽しませることは無くなったのです。

 人の命は、金以上に素晴らしいものです。しかし金以上に、はるかに高い価値を信仰者は天に見出して歩む、もはや地上の何ものもそれを奪うことはできません。これは聖霊の油そそぎと満たし、あるいは聖霊のバプテスマとほぼ同義語であって、生きながらにして神の絶大な栄光に与るものです。それを導き開く扉が「試練」であるのです。ですから「試練が来たら喜ぼう」なのです。

2022年1月23日 (日)

新しく造られた者

Ⅱコリント 5章17節   2017新改訳

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

「神様を信じた人」と言っても、大きく三種類に分けられるかと思います。一つ目はサマリアで魔術を使っていたシモンのようなタイプです。彼はいつもピリポに付き従って信者のようにしていたのですが、それは信じたからでは無く、お金で神の賜物を買おうとしたように、自分の魔術のパワーアップのためでした。
 今日、教会側にも大きな責任がある事態が生じています。明らかに本当には信じていないのにもかかわらず、ローマ10章9−10の「口で」の意味するところを、単に形だけ、口先だけでも告白さえすれば、即時に信者(クリスチャン)だとすることです。これは偽りであり、言わばその気にさせて、なりすましの信者を強いているのです。これが今日の教会の退潮と混乱の原因ともなっています。

 後の二つは聖霊のバプテスマを受けていないクリスチャンと、受けているクリスチャンのことを指します。これらのクリスチャンはキリストの死による罪の赦しを受けていますので、聖霊なる神が内住しています。ただその聖霊がその人を支配しているかどうかの違いがこの両者を分けています。しかし共通して言えるのは、礼拝を決して欠かしませんし、なんとかして捧げ物をしようとすることです。
 さらに下記の聖句ように、「もはや自分のためではなく、キリストのために生きる」という信仰の実が必ずついていることです。その端的な例は、きちんと毎週毎週の礼拝出席ができることです。霊的な命がある人ならば、礼拝を欠かして、正常なこの世に逆らって神を第一にできるはずがありません。新しく造られた人は、キリストのみからだの一員として、霊的な飢えを満たす教会の礼拝を欠かすことができないのです。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。 (✝Ⅱコリ5章15節)

2022年1月16日 (日)

御霊のからだのリアル

Ⅰコリント15章44節   2017新改訳

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

 土で造られた私たちの祖先であるアダムは罪を犯したため、私たちの体は、土に還るものとなりました。もしも罪を犯さなかったなら、彼らは永遠に生き、私たちも存在していなかったことでしょう。しかし測り知れぬ神の予知と計画によって、今日の私たちになったのです。

 今から2千年前、罪のない方が世に現れ、神であるわざとしるしと言葉を残され、罪を赦すための十字架で死なれました。驚くべき事に、その方は御霊の体で復活されたのです。御霊のからだとは、単に霊的な存在ではなく、超物質的な存在です。壁を通り抜け、どんな所にも瞬時に移動でき、飢えも渇きも無いだけでなく、永遠で朽ちることはありません。御霊のからだはその霊と同体であり、個性と自主性を維持しつつ、神の子として神のみこころを行ない続ける存在なのです。

 十字架の神の御子を信じたなら、罪が赦されて聖霊の内住が可能になります。さらに自分に死んで神のものとなるなら、聖霊が支配される存在、いわば天が降り立った者となります。キリストの初穂のからだと同じように、キリストにあって死んだ者が、時が来た時にキリストと同様、御霊の体にしてよみがえるのです。しかし時が来た時、神のご意志の実行役に用いてくださるがこの1コリント15章44節で語られている御霊のからだです。

 このことは、次のことを暗示します。土で造られた者は土の性質を現し、天に属する者は、天の性質を現すと言うことです。クリスチャンと称していても、いつまでも土の性質であるこの世の欲望や不安や恐れに支配されていては、御霊のからだになれる保証はありません。
 つまり、種は死ななければ発芽せず、多くの身を結ばないように、自分に死ななければ新生しないのです。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます ヨハネⅠ2:24
血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちる者は朽ちないものを相続できません。Ⅰコリ15:50

 血肉のからだで蒔かれたものは、地上だけのもので、卑しく朽ちて行く弱い存在です。天上のからだとは朽ちることなく、強く、永遠に栄光ある存在です。そのような人は、自分の命をこの世でどのように使うのか、神からの召しを受けています。それゆえ天への喜びがが満ち溢れており、自分を偽り隠すことがないのです。

2022年1月 9日 (日)

御霊によって生きる

ガラテヤ 5章24~25節   新改訳2017

 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

 私たちは、「御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」とパウロは熱心にガラテヤ地方のクリスチャンに奨めています。つまりキリストにつかず、肉のままの自称クリスチャンが程度はわかりませんが、無視できないほど居たということです。この手紙は残されているパウロの手紙で最も初期のものですから、1世紀のほぼ真ん中で書かれています。つまり、パウロの第一回伝道旅行が終わって5年ないし10年しか経ていないのに、こういう事態だったのです。

 使徒の働きには当初からクリスチャンには二種類いました。<水のバプテスマ>のクリスチャンと<聖霊のバプテスマ>を受けたクリスチャンです(使徒8:14-17、19:1-7)。聖霊のバプテスマを受けていないと、神と親しく交れませんから、クリスチャンの使命「御霊によって生きる、神の御心を行なう」ことは困難です。そしてパウロは前節までで、<肉のわざ>と<御霊の実>と対比して二種類のクリスチャンの違いを明示しています。

 ところで、「神を本当に信じるとは、どういうことですか?」を質問されたことがあります。「実がつき、実ることです」と私は答えました。これを初歩的な事例で例えば、自分自身の心の内に肉のわざへの誘惑が襲ってきた時、これを古い自分自身が今一度虜にしようとの攻撃であることを直感し、「イエス・キリストの御名によって命じる、お前を縛る。今すぐ私から出て行け!」と戦えるかどうか、なのです。肉のわざを行う者は、神の国を相続できない(21節)のですから、これは非常に重大な問題です。これは全クリスチャンに向けてのメッセージであって、決して看過してはいけないものなのです。

 あなたは22節以降のような実をつけていますか?あなたの心の中は、本当に主の霊によって生き、歩んで おられますでしょうか。私達の髪の毛の数すら数えておられる神は、私達の心の中の全てを、私達が生まれる前から、一切を見ておられるのです。

 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」とパウロは熱心にガラテヤ地方のクリスチャンに奨めています。つまりキリストにつかず、肉のままの自称クリスチャンが程度はわかりませんが、無視できないほど居たということです。この手紙は残されているパウロの手紙で最も初期のものですから、1世紀のほぼ真ん中で書かれています。つまり、パウロの第一回伝道旅行が終わって5年ないし10年しか経ていないのに、こういう事態だったのです。
 使徒の働きには当初からクリスチャンには二種類いました。<水のバプテスマ>のクリスチャンと<聖霊のバプテスマ>を受けたクリスチャンです(使徒8:14-17、19:1-7)。聖霊のバプテスマを受けていないと、神と親しく交れませんから、クリスチャンの使命「御霊によって生きる、神の御心を行なう」ことは困難です。そしてパウロは前節までで、<肉のわざ>と<御霊の実>と対比して二種類のクリスチャンの違いを明示しています。

 ところで、「神を本当に信じるとは、どういうことですか?」を質問されたことがあります。「実がつき、実ることです」と私は答えました。これを初歩的な事例で例えば、自分自身の心の内に肉のわざへの誘惑が襲ってきた時、これを古い自分自身が今一度虜にしようとの攻撃であることを直感し、「イエス・キリストの御名によって命じる、お前を縛る。今すぐ私から出て行け!」と戦えるかどうか、なのです。肉のわざを行う者は、神の国を相続できない(21節)のですから、これは非常に重大な問題です。これは全クリスチャンに向けてのメッセージであって、決して看過してはいけないものなのです。


 あなたは22節以降のような実をつけていますか?あなたの心の中は、本当に主の霊によって生き、歩んで おられますでしょうか。私達の髪の毛の数すら数えておられる神は、私達の心の中の全てを、私達が生まれる前から、一切を見ておられるのです。

2022年1月 2日 (日)

神に愛される秘訣

 詩篇 32篇5節   新改訳2017 

私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを【主】に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。

 神というのは、当たり前だけれども全地全能の造物主で、全てのことをご存知である(天の御座の周りに前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた:黙示録4章6・8節)。私たちは常にその天の神に報告され一切が知られている存在である。

 長年小学校の教師をしていた私が、教師をしていて一番嬉しかったことは、教え子に問題があって、指導していた時の子ども態度だった。私から咎めを受けそうな子が、それまで嘘を言ったり取り繕っていて、どうにも隠しきれなくなって、突然「ごめんなさい」と反省し認め、悔い改めた瞬間である。それはすごく嬉しくて、思わずその子を抱きしめたくなったものである。

 実は、天の神さまも同じではないかと思う。詩篇32でこんな箇所がある。
私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ

 全てを知っておられる神に向かって、自分を守って偽りを言うほど愚かで、神をガッカリさせ悲しませることはないと私は思う。神からの愛を失うことほど、私たち人間にとって危険な状態は存在しない。逆に「お父さん、ごめんなさい赦してください」と本当のことを白状し、その懐に飛び込むことほど、神さまを喜ばせることはないはずだ。心からであれば、たとえどんなに罪を犯していようが、両手を上げて喜んでくださり、赦してくださり、愛してくださるのは絶対の請け合いだ。

「神に愛される秘訣」とは、善行を行なったり、無理して聞き従う真似をして頑張ることではない。そんなこと、見ておられる神さまもお疲れになる。良い子ぶっても、そこはお見通しなのである。神に愛されれば、述べたような神を受けて、もう本当の自分を見ることは怖くなくなる。その罪だらけの自分に愛想を尽かし、解放され、全ての希望と喜びを、ただ神の愛だけに見出すようになるのは時間の問題だ。そして聖霊のバプテスマを体験し、神さまと交わり、神を知れば知るほど神を愛するようになる。この恵みのサイクルにはまっていく素晴らしさ、その喜び。

 その秘訣は極めて単純であり、幼児ですら分かることである。正直なこと。私は「自分の罪をあなたに知らせ、私の咎を隠しません」と神の愛をゲットする。このサイクルにはまると、もう罪を報告するのがサディスティクという訳ではなく、喜んでいつもするようになるのだから。
 あなたの身の回りに、そんな理解不可能なサディスティックとすら思えるクリスチャンはいませんか。彼らに喜びがあるのを見ていませんか? 彼らは真のクリスチャンです。

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