御霊のからだのリアル
✝Ⅰコリント15章44節 2017新改訳
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
土で造られた私たちの祖先であるアダムは罪を犯したため、私たちの体は、土に還るものとなりました。もしも罪を犯さなかったなら、彼らは永遠に生き、私たちも存在していなかったことでしょう。しかし測り知れぬ神の予知と計画によって、今日の私たちになったのです。
今から2千年前、罪のない方が世に現れ、神であるわざとしるしと言葉を残され、罪を赦すための十字架で死なれました。驚くべき事に、その方は御霊の体で復活されたのです。御霊のからだとは、単に霊的な存在ではなく、超物質的な存在です。壁を通り抜け、どんな所にも瞬時に移動でき、飢えも渇きも無いだけでなく、永遠で朽ちることはありません。御霊のからだはその霊と同体であり、個性と自主性を維持しつつ、神の子として神のみこころを行ない続ける存在なのです。
十字架の神の御子を信じたなら、罪が赦されて聖霊の内住が可能になります。さらに自分に死んで神のものとなるなら、聖霊が支配される存在、いわば天が降り立った者となります。キリストの初穂のからだと同じように、キリストにあって死んだ者が、時が来た時にキリストと同様、御霊の体にしてよみがえるのです。しかし時が来た時、神のご意志の実行役に用いてくださるがこの1コリント15章44節で語られている御霊のからだです。
このことは、次のことを暗示します。土で造られた者は土の性質を現し、天に属する者は、天の性質を現すと言うことです。クリスチャンと称していても、いつまでも土の性質であるこの世の欲望や不安や恐れに支配されていては、御霊のからだになれる保証はありません。
つまり、種は死ななければ発芽せず、多くの身を結ばないように、自分に死ななければ新生しないのです。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます ✝ヨハネⅠ2:24
血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちる者は朽ちないものを相続できません。✝Ⅰコリ15:50
血肉のからだで蒔かれたものは、地上だけのもので、卑しく朽ちて行く弱い存在です。天上のからだとは朽ちることなく、強く、永遠に栄光ある存在です。そのような人は、自分の命をこの世でどのように使うのか、神からの召しを受けています。それゆえ天への喜びがが満ち溢れており、自分を偽り隠すことがないのです。
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