金よりも高価で尊い
✝Ⅰペテロ 1章7節 2017新改訳
試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
神を知ることは人の意志や努力である程度可能でしょう。しかし知り得た知識や情報だけでは、本当に信じる(クリスチャンになる)ことは不可能です。なぜなら信仰は人知を越えたものだからです。例えば、イエス・キリストが処女から生まれたという出生の奇跡。湖の上を歩き、嵐を静め、二匹の魚と五つのパンだけで五千人の人々に食べさせ、かつ相当余った奇跡。また中風や足萎えの人、生まれつき盲目の人を瞬時に癒やした癒やしの奇跡。死んで四日も経ってしまい、腐敗の臭いの中、ラザロという人物を蘇らせ(他にも二人)た奇跡。極めつきは十字架で葬られたはずなのに、三日目に御霊のからだという、血肉のからだを超えた驚くべき姿で現れたことでしょうか。これらあり得ない理解を超えた多くのキリストのワザを奇蹟を、実際に起こったと信じなければならないからです。これらは人の常識や理解の限度を超えていますので、信じることを信仰と呼びます。逆に言えば奇跡が踏み石になって、私もバプテスマを受けたものの、三十年もクリスチャンと称しながら、不信仰な世界を漂流していたのです。
人が信仰を持つには、自分の常識、知る力、判断力などを捨てなければならないことは明白ですが、それは人の力ではできないことで、これを「自分に死ぬ」と申します。ではなぜ信仰を持てるのか?それは神による「試練」に耐え、自分の罪を徹底的に知らされ、自分に希望を失い、そのどん底の中で自分の命をはるかに優った神の愛を、聖霊によって知らされたからに他なりません。神によって絶望的な罪人状態であることを知らされることは、逆に神の驚くべき圧倒的な愛の価値に自分を遷移することができます。これが神による試練の実態です。この試練の恵は、全知全能なる神だからできることであって、人の高ぶりや我慢の限界、限度を本人よりも見極めておられる神でしかできないことです。
この試練はその人の価値観、人生観、生きる目的を180度変えます。変えられていなければ、それは神から来た試練ではありません。試練の結果は明白です。自分のいのちは神のものであり、神の栄光のために残りの余命があります。そして目は永遠なる神に向けられ、それを仰ぎ続けて、神の御心にすべて従います。この地上の何ものも、以前のように自分を楽しませることは無くなったのです。
人の命は、金以上に素晴らしいものです。しかし金以上に、はるかに高い価値を信仰者は天に見出して歩む、もはや地上の何ものもそれを奪うことはできません。これは聖霊の油そそぎと満たし、あるいは聖霊のバプテスマとほぼ同義語であって、生きながらにして神の絶大な栄光に与るものです。それを導き開く扉が「試練」であるのです。ですから「試練が来たら喜ぼう」なのです。
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