神の用意周到さ
✝イザヤ 40章28節 2017新改訳
あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。
神のされることは私たち人間の理解を超えています。神のされようとしておられる計画は、時に<おかしなこと、良いこととは思えない>事柄であっても、神を信頼し、その導きに委ね従って行くならば、最善にして最高の結果を私たちは見ます。本日は福音を全世界に広め、ユダヤ教を脱してキリスト教を確立したパウロ、その次に私たちの教会を例にして、神の用意周到さ、その導きに信頼することの素晴らしさを見ていきましょう。
神さまはパウロを、いきなりキリスト教の立役者として引っ張り出されたのではありません。アブラハムに「あなたによって祝福されるすべての部族は祝福される」(創世12:3)と語った神は、その子孫を通し、人の力や行いでは救われ難い事実を明らかにされました。つまり十字架のメシアが必須な状況において、万を侍してイエスさまをこの世界に送り出されたのです。
ステパノの殉教によって、エルサレムの主だった人たちが散らされたことも益にされました。ピリポによって、隣接民族サマリヤ人に救いがもたらされたのです。それだけでなく、使徒ペテロを通し、幻で3度も「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と教え導き、異邦人の百人隊長コルネリウスの家に行かせ、家族と食事を共にさせ、バプテスマまで施させたのです。
当然パウロはエルサレムに帰って、律法違反の嫌疑をかけられましたが、同行し異邦人にも聖霊が下った証人が七人もバックにいたのでは、認めるしかありませんでした。しかし注意すべき点は、異邦人信徒が救われたことには同意はしたものの、割礼を無効にした訳ではないことです。そこまで受容してしまえば、エルサレム教会の人々は異端とされ、エルサレムに存在することはできなかったことでしょう。
このようにお膳立てされた上で、タルソ出身、つまりバイリンガルでローマ市民権という特権に恵まれたパウロが登場しました。律法に精通していた彼のしたことは、律法の限界から「信仰義認」という土台を確立し、ユダヤ教の枠からイエスの教えを飛び立たせたことです。彼にあって割礼問題は、もはや飛び越す当然のステップになったのでした。
さて船橋キリスト教会についても、神の用意周到さを知ることができます。例えば今日13日はちょうど2年前、前日に引っ越しを完了し、初めての礼拝を開いた日になります。翌日には稻村家が引っ越されてきました。驚くことに、もしこの家が会堂として開かれていなければ、間違いなく私たちはこの二年間、礼拝する場所を失っていただろうと言うことです。今回、契約の更新がなった今、さらに礼拝場所が確保されたのです。2年前のあの時、私たちが望んでいた条件に適合した物件はこの一軒だけでした。しかし契約に必要なお金がまるでなかったのです。諦めるしかない、そう思ったのですが、「見るだけでも」と言う誘いの言葉に従って下見に来た時、「此処です」と示されたのでした。
必要なお金は、特に金額を上げずとも、皆の献金で必要な額が満たされたのです。御心とはこういうことを言うのでしょうか。この会堂は、皆が捧げて与えられた教会です。感謝しましょう。
会堂がわかり易いので最初に話しましたが、12年前、私は牧師として派遣されてきました。それにも「マケドニアの叫び」と言う神の用意周到な備えがありました。実に不思議な神の導きでした。もうすぐパトモス派遣という時期。区の定期検診結果を知らされる日に病院に行きますと、まだデータが届いていないと言われ、仕方なくそれはパトモス派遣の後に聞くことになりました。そのパトモス派遣は、帰りに島からギリシャ本土に着くとすぐバスに乗り、ほぼ1日かけてマケドニアのテサロニケに行ったのです。その夜テサロニケのホテルに泊まった翌朝の聖会で秋元牧師が変な夢、
「マケドニアの叫び」を見たと言い始められたのです。帰国後、それを悟られた秋元牧師は、「宣教に遣わすので示された者は名乗り出るように」と言われました。私がこの群れに来て、この逆はあっても、アンテオケ教会から遣わすとは初めてのことでした。
さて帰国後すぐに検診結果を聞きましたが、かなり大きな癌らしき腫瘍が二つもあるという診断でした。「結腸癌の疑い」があるので、すぐに大きな病院でカメラによる検査を受けるように指示されました。レントゲン写真を見ましたが、それは素人目にもわかる大きなものでした。
造影剤で映った大きな腫瘍を見て、これが本当なら大きなゆえに転移もかなり進んでいるような気がしました。ネットで調べますと、結腸癌の自覚症状の項目にすべて該当し、ガンだと確信を持ちました。生存率を見ますと「ああ、これでは私は死ぬかも知れない」という思いに至りました。真剣に祈り始めますと、「永遠のいのちに比べれば、これは取るに足りないこと」のように思え、死への恐怖心は取り去られ、平安がきました。さらに祈っていますと、こんな示しがきました。「命は私の手の内にあります」 「主よ、その通りです」 「わたしの与えた使命を、あなたは全く果たしていません」 「主よ、その命がなければ、私の使命を果たす事は出来ないのではないですか」。しかし祈りはここまでで、この後の応答は無くなったのです。けれども御心はわかりました。(牧師)として召したのだから、その使命を果たせ=つまり、本格的な牧会に出なさいと言う意味であると。
ところが月曜日のカメラによる検査結果は驚く結果で、「全く癌はありませんでした」と言うものでした。「それではあれは、別人のものでは無かったか?」と思うほどでした。
検査の翌日の火曜日は白馬キャンプでした。キャンプで秋元牧師に検査結果を聞かれた私は「癌は無かったです」と報告しました。「それは奇跡ではないですか」と言われました。しかし私は人違いだったような気がしましたし、示されたことに対して、どのように自分が対応すべきなのか、考えがまとまっていませんでした。しかしもし奇跡であれば、神の御心は明らかです。踵を返して去ろうとした時、突然私は自分でも思ってもいなかった言葉が口から出ました。「秋元牧師、私をどこかに牧師として出してください」と。
その結果、船橋という未知の土地に赴任が決まりました。「マケドニアの叫び」は神が私をこの船橋に遣わすために、群れ全体に示してくださったのです。「信徒は1人も居ない、開拓地」と聞いて船橋に来たのですが、主は1人だけ備えてくださっていました。右も左もわからない私たちにとって、その方はその後、非常に大きな助けとなってくださいました。神に感謝します。
偶然はあり得ません。神はこのように御心を成そうと用意周到に、人知を超えた準備してくださる方です。私たちはいろいろな問題や不安を抱えたとしても、信仰によってその火矢を消し、神を信頼し、神の導かれた道を全うしようではありませんか。神は信頼に値する方であり、その英知は測り知れないからです。
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