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2022年3月

2022年3月27日 (日)

目を覚ましていなさい

マルコ 13章37節   2017新改訳

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。

 この度のウクライナへのロシアの侵攻は、次の二つのことを読み取ることができます。一つにはロシアの本質です。終わりの時代になると、エゼキエル書の38章に、イスラエルの北の果て、ゴグが他の国々とともに攻めてくると預言されています。ゴグとはイスラエルの真北にあるロシアのことです。今回そのロシアの残虐さが明らかになったわけですが,一方、国連でロシアへの非難決議の採択があり、世界の圧倒的多数の賛成がありました。しかしこれに反対もしくは棄権した国々、つまりロシアの友好国とでも言える国々が少数でもありました。そしてその国々を見ると、何とロシアからイスラエルまで、陸路で行けるのです。また一歩、預言が成就する背景が整ったのです。
次にこのロシアの暴挙に対して、西側世界が強い団結を示したことです。特に陸続きのEUにそれが顕著で、早晩NATOの一翼を担うEU軍を作ろうとするのではないでしょうか?そうなれば、終わりの時代になって登場するかつてのローマ帝国の再来となり,反キリストが登場する舞台が出来上がって行くことになります。これが第二の重要な事になります。

このように終わりの日が近づいて来ているのを見ると、私は高木仙右衛門のことを思い出すのです。村の有力な中心人物達は、迫害に転ぶことはないと自信を持っていましが、彼は自分の体が病弱なことを知り、転ばないよう主に祈り続けていました。結果的には、仙右衛門だけが転ばずに済んだのです。

私たちは自分の弱さを知り、サタンの策略に揺り動かされないようにしなければなりません。また、神に聞き従う者は,圧倒的な勝利者になることが約束されているのです。
そのためには、終わりの時代の備えとして、神に祈り、交わり続け、神からの守りがあることと、最後まで耐えられる力を受け続けて行かなければなりません。そしてそれは、終わりの時代になってからでは遅いのです。したがって
「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。(ヘブル人への手紙 3章13節)が特に必要なのです。

それが本日の主題
わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。(マルコの福音書 13章37節)の答えとなるでしょう。

2022年3月23日 (水)

目を覚ましていること

・・・3月23日水曜礼拝メッセージ要旨です・・・
マルコ 13章37節   2017新改訳 

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。

 本日のメッセージは「目を覚ましていること」です。終末は遠い先のことだと思っていましたが、今回のことでゴグの動きとその野望が明らかになり、非常に現実化してきました。生きている間には来ないのでは無いかと思われる方が多いと思いますが、どうもそうではないようです。
 そこで本日は終末の時代はイエス様が特に言っておられたこと、「目を覚ます」とはどういうことかをお伝えしたいと思います。まず第一にそれは、<突然来る>ということが特徴であるということです。なにしろそれがいつかは、イエス様だって知らない(マタイ24:36)とおっしゃっているのです。まして私たちのような人間に過ぎない者がわかるわけはありません。ですからそんな日時のことを言っていたり、恐れている人は皆、御心に背く人たちです。

 ではどうしたら良いのでしょうか。普段通りで良いのです。ただし、心配ばかりし、ふわふわ落ち着かないので仕事が手につかない、のではなく、「忠実で賢い管理人(ルカ12:36)」のように、帰って来られた主人にその働きぶりを見ていただくことです。忠実にとは、いつ帰って来られても良いように、主をお迎えできる態勢をとっているということです。
 ではそれは今の私たちに当てはめるなら、「忠実に」とは具体的にどういうことでしょうか。社会での仕事も勿論、きちんと果たすということですが、信仰的には次のような意味になるのではないでしょうか。

 つまり、疫病(今がそうですが)や戦争(ウクライナ)の話を聞いても、また飢饉(資源の問題や気候変動で必ず来ます)や地震などの自然災害に遭って、私たちのこの社会に生活に未曾有の混乱が起こることでしょう。また偽預言者が私たちを惑わそうとし、人々の愛が冷え、クリスチャンが迫害されるようになりますが、どんな時代が来ようと動揺せず、ただ天に向けて祈り、聖書と聖霊に忠実に従い続けることです。聖書の言葉以外を信じてはいけません。聖書に書いていないことであれば、確かな示し、語りかけがあるまであきらめず祈ってください。示しがないのに自分の願うことを肉的に「受け取った」として罪を犯さないようにしましょう。たとえ辛く従いにくいことでも、確かに示されたことには、従いきりましょう。
 そのために一層信仰を求め、信仰に励みましょう。危機にあればこそ、聖霊の主が頼りあることは確かなことです。そのためには皆さんの血肉の命を神に捧げ、全てを神に委ねる者となっておきましょう。終末の最大の備え、それは聖霊の油注ぎを受ける、受け続けることです。



 

2022年3月13日 (日)

主の祈り

✝マタイ 6章9-13節   2017新改訳

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

天にまします我らの父よ・・ これは、祈る対象が父なる神であることをはっきりさせる意味です。これなくして間違えて、悪霊に祈ってしまうかもしれません。養子とは言え相続権を持つ子ですから、遠慮なく「天のお父さん」と呼びかけましょう。子が「お父さん」と一生懸命呼びかけているのに、肉の父が無視していることはあり得ません。天の父も同様です。ですからどんなに祈っても神が沈黙しておられるとしたら、それはその人がまだ子になっていないのです。

願わくは御名をあがめさせたまえ・・ この箇所は「神様、あなたはあまりにも偉大なお方なので、どうか褒め称え、礼拝させてください」という意味になるでしょう。

御国を来たらせたまえ・・ この箇所は、聖徒にとっては再臨を待ち望む意味です。しかし聖霊のバプテスマを受けていない人にとっては「私たちの心の中に、神の支配が確立し、聖霊の宮である神の国が実現しますように」と言う求めにも受け取れます。しかし弟子たちに教えられたという状況を考えれば、「再臨によって神の国の一員として引き上げられることを待ち望んでいます」になるでしょう。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ・・ 神の御心は聖霊のバプテスマを受け、日々神と交わって知っていなければ、御心を地上で行うことは困難です。広義に見れば聖書での神の計画の成就を願うということでしょう。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ ・・省略

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ・・ 【赦し】はキリスト教の最重要なテーマです。英語でbad debtという言葉があって、それは返済不可能な債務という意味です。私たち人間は皆、気付くか気付かないかは別としてbad debtを負っている。神のあわれみに拠る以外、私たちは全員牢獄行きです。それゆえ、全て神に赦された者は、たとえ自分の命を不当に奪おうとする者に対してでさえ、赦します。さもなければ、私たちへ自身への赦しを失って、御国に行けなくなる最大の損失をこうむります。赦さずにはいられません。

我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ・・ ここでの試みとはtemptationの意味であり、試練というより誘惑の意味に近い。イブの時代から人は誘惑に弱い。常に祈るべきです。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり アーメン ・・省略

 

2022年3月 6日 (日)

真の祈り

マルコ 1章35節   2017新改訳

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 私が四十代だったので今から25年前ぐらいになる。そのころ私たち家族は癒やしを切に求めていたので、癒やしで有名な某教会のサポートを受けながら「家の教会」をしていた。その教会の礼拝に在る時出席した後に、広い地下室で牧師に祈ってもらったことがある。薄暗がりの下、聖なる卒倒者が続出する雰囲気の中、その牧師は私の額に手を当てて祈って一言、「あなたは祈りが足りません」とだけ言ってくれた。私は一瞬、「この立派な信仰者に祈ってないなんて、失敬な」とムカッとしたが、同時に「確かにそうだ」とも思った。正直もっと祈りたかった。祈れる者になりたかった。しかしどのように祈ったら良いのか、わからなかったのである。

 今でもあの時の私のような方が多いのではと思う。その頃の私の祈りは、家庭内の大きな問題で自分を被害者にし、神に改善の要求ばかりを突きつけていた。それはまるで、プラカードを掲げて押しかけるデモ隊そのものだった。「クリスチャンホームは祝福されるべきなのに、これでは話が違う」「神よ、妻の病を癒してください、それでも祝福の神なのですか」・・・etc。これではほとんど脅迫だった。その結果はもちろん、遠藤周作の「沈黙」そのものであった。神は黙され、大声を上げて叫ぶ私には、一切何も語られることはなかった。

 神は忍耐され、本人が気づくまで待ち続けられた。それも神の愛でもあった。私がついに自分の真の姿を見、重大な罪に気づいた時、その絶望の中で神は、私にぴったりな語りかけで自らを現してくださった。全知全能の神のタイミングだった。神を知ったその日から祈りも開かれた。私は毎早朝、少なくとも一時間は祈る者に変えられた。なぜできるか?祈れば神の応答があり、意思の交わりがあり、神の御性質が戒めと慰めと励ましに満たされるからである。楽しくて仕方がなかった。このような交わりがなければ、決して長い時間祈ることなどできはしない。

 祈ることは素晴らしい。それは神と交わる時のみ得られる。数人で、あるいは祈祷会とか集団で祈ることがあるが、それは神と一対一で交わる祝福には遠く及ばないものだ。イエス様は多忙な中、祈る時には人々を遠ざけ、妨害されない静かな寂しい環境、たとえば山の上や密室で祈ることを習慣にされていた。神ですらそのように祈る時間を大切にされるのに、まして私たちが祈りにいい加減な態度で、どうして義とされるのだろうか。私たちは血肉の世に生きているが、聖書と祈りに生きること、それが結果として御心を行い、神の国の宝を積む唯一の道である。

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