真の祈り
✝マルコ 1章35節 2017新改訳
さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
私が四十代だったので今から25年前ぐらいになる。そのころ私たち家族は癒やしを切に求めていたので、癒やしで有名な某教会のサポートを受けながら「家の教会」をしていた。その教会の礼拝に在る時出席した後に、広い地下室で牧師に祈ってもらったことがある。薄暗がりの下、聖なる卒倒者が続出する雰囲気の中、その牧師は私の額に手を当てて祈って一言、「あなたは祈りが足りません」とだけ言ってくれた。私は一瞬、「この立派な信仰者に祈ってないなんて、失敬な」とムカッとしたが、同時に「確かにそうだ」とも思った。正直もっと祈りたかった。祈れる者になりたかった。しかしどのように祈ったら良いのか、わからなかったのである。
今でもあの時の私のような方が多いのではと思う。その頃の私の祈りは、家庭内の大きな問題で自分を被害者にし、神に改善の要求ばかりを突きつけていた。それはまるで、プラカードを掲げて押しかけるデモ隊そのものだった。「クリスチャンホームは祝福されるべきなのに、これでは話が違う」「神よ、妻の病を癒してください、それでも祝福の神なのですか」・・・etc。これではほとんど脅迫だった。その結果はもちろん、遠藤周作の「沈黙」そのものであった。神は黙され、大声を上げて叫ぶ私には、一切何も語られることはなかった。
神は忍耐され、本人が気づくまで待ち続けられた。それも神の愛でもあった。私がついに自分の真の姿を見、重大な罪に気づいた時、その絶望の中で神は、私にぴったりな語りかけで自らを現してくださった。全知全能の神のタイミングだった。神を知ったその日から祈りも開かれた。私は毎早朝、少なくとも一時間は祈る者に変えられた。なぜできるか?祈れば神の応答があり、意思の交わりがあり、神の御性質が戒めと慰めと励ましに満たされるからである。楽しくて仕方がなかった。このような交わりがなければ、決して長い時間祈ることなどできはしない。
祈ることは素晴らしい。それは神と交わる時のみ得られる。数人で、あるいは祈祷会とか集団で祈ることがあるが、それは神と一対一で交わる祝福には遠く及ばないものだ。イエス様は多忙な中、祈る時には人々を遠ざけ、妨害されない静かな寂しい環境、たとえば山の上や密室で祈ることを習慣にされていた。神ですらそのように祈る時間を大切にされるのに、まして私たちが祈りにいい加減な態度で、どうして義とされるのだろうか。私たちは血肉の世に生きているが、聖書と祈りに生きること、それが結果として御心を行い、神の国の宝を積む唯一の道である。
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