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2022年4月

2022年4月24日 (日)

新たな迫害が始まる

ルカ 21章12~19節     2017新改訳

また、わたしの名のために、すべての人に憎まれます。

 この度のウクライナ戦争で、次第にはっきりしてきたことがあります。それは思わぬ方向からのことです。現在二ヶ月になっているウクライナ戦争は、ヨーロッパの東欧の出来事であって、極東に住んでいる私たちが身近に感じることはないはずです。が、現実はそうではありません。連日TVやYouTube、Facebookなどを通して、我々日本人の関心が非常に高いのです。日本も西欧民主主義諸国と同じ一員であり、強い絆があるようです。ロシアとも国境を接しています。ウクライナもそのように見なし、ゼレンスキー大統領も日本の国会議員に向けて演説さえしました。

 このような中、多くの日本人がウクライナを何とか支援したいと思っており、私たちのような小さな群れでも、ウクライナへの献金を集めると、たちまち160万を上回る金額が集まるほどでした。そしてそのような関心は、咋今ではロシアのプーチン大統領を支える背後に目が行き始めることで、クローズアップされてきたことがあるのです。
 それはプーチン大統領の精神的盟友だとされるロシア正教のキリル総主教の存在です。BS-TBSでは「侵攻と信仰のただならぬ仲」と題して1時間以上の特集番組さえ組みました。彼はウクライナを攻撃するプーチンとその軍を信仰的に正当化し、鼓舞までしているのです。
 一般の人々にとって、キリスト教徒同士が殺し合うことや、それを推奨するキリスト教指導者って、当然人々は疑問を持ち、恐ろしいと思うようになります。それがクリスチャンへの否定的見方となって来ているのでしょう、すでに私の職場やテニス仲間から疑問を呈されたり、職場帰りの伝道師へのしつこい攻撃となって、現実化しています。おそらくロシアの蛮行に日本人が感じる義憤が、たまたま怒りに近い感情となって、このような形で私たちに向かってきたと私は見ています。
 このような近づいてきた終末の時代、私たちはどのように対処していけば良いのでしょうか。「あれは宗派が違う」とか「キリスト教の本質からキリルは逸脱している」と弁明しても、それは非キリスト教国のこの国では通じない話です。そうではなく、私たちクリスチャンもロシアが国際的な制裁を受けるのは当然だと思っていること、ウクライナの人々の願いと痛みを我がこととして感じ、心を一つにして祈っていること、その支援にも実際取り組んでいることなどを語るべきでしょう。

 そして終末の時代、必ずクリスチャンへの迫害が起こってくると聖書にありますので、どのような状況が許されようとしても、私たちの信仰がサタンに奪われたり、迫害(岩地)のために枯れたり、世の誘惑につまづくことのないように祈りを強め、備えて行かなければなりません。次のみ言葉、
わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタ5:44」
と主がお命じなったように、自身の弱さを覚え、神の愛を証する者として祈り求めて行きましょう。

2022年4月17日 (日)

よみがえられたのです-思い出しなさい

ルカ 24章6節   2017新改訳

ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。

 さて復活祭の本日の聖書箇所は「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたこと、主がお話しになったことをお思い出しなさい。」(ルカ24:6)です。マグダラのマリヤをはじめとする女たちが、復活の朝、イエスが葬られた墓の前で天使達から聞いたことばですが、今回特に最後の「思い出しなさい」に心が惹かれました。ですから天使に言われたこの言葉を、現代の私たちも同じように追体験したいと思います。

 ではその前段階として、次の三つの問いを考えてみましょう。
1、「なぜ神が人の体になって来られたのでしょう。これはメシア預言の成就のためであり、人の体でなければ弟子を育て、愛のわざを行い、主   目的の全人類の罪を贖うためであったでしょう。
2、なぜ神が十字架に架かって苦しみ死ななければならなかったのでしょう。これは第一に人の肉体の弱さを思いやり、その死に打ち勝つため。後に続く信者への励ましと赦しのためでしょう。
3、なぜ神は復活されたのでしょうか。血肉の死から御霊のからだで現れ、後のからだと永遠のいのちの勝利を宣言するためでした。

 では本題ですが、彼女たちは「思い出しなさい」と言われて、何を思い出したのでしょうか。おそらく弟子たちも同様だと思いますが、これを次の二つの点ではないかと思われます。
 まず 「わたしは、三日でそれをそれをよみがえさせる」(ヨハネ2:19)と語られた言葉です。これは宮きよめの時に語られたのですが、まさしく三日目に神の住まいである神殿がよみがえったのです。
 次に(五千人の給食の奇跡の後の)「人の子は多くの苦しみを受け・・三日目によみがえられなければならない」(ルカ9:20〜)の言葉でした。実際イエスを信じる者は、迫害やその他多くの苦しみを受け、自分に死に、血肉のいのちを神に明け渡さなければならないのです。

 さて弟子たちは以上のように、生前にイエスが予告されたことばを思い出したはずですが、重ねて一つの重要な面を確認しておきたいと思います。それはイエス様が御霊のからだの初穂として復活されたことです。弟子たちは復活されたイエス様がなかなか分かりませんでした。それは当然です。アポロ宇宙飛行士の体験は彼らだけのものでしたが、弟子達も人類初の体験をし、それは未だもって人間の理解力をはるかに超えるものでした。同時に私たち信じる者の究極の目標が、リアルに実際に明らかにされた日でもあるのです。
 そう言うわけで、これから私たちはイザヤ53章、ここはメシア預言の最たるところですが、これを斉読しながら、イエス様の十字架と復活に心を寄せて終わりにしたいと思います。

2022年4月10日 (日)

信じる段階Ⅱ・・・義を行う

Ⅰヨハネ2章29節   2017新改訳
あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。
Ⅰペテロ2章24節   2017新改訳
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた

 この段階は聖霊の油注ぎを受け、聖霊のバプテスマを受け、新生したクリスチャンの段階です。何が段階Ⅰと違うかといえば、神と交わっていること(1ヨハ1:3)それゆえ御心がわかり、御心を行おうとし、その賜物を得ているクリスチャンの段階であるということです。

 この段階には、人が意志の力で努力しても到達することは無理です。なぜなら人は皆救い難い罪人であり、自分を捨てることは不可能だからです。どうしても自己正当化し、守ってしまいます。そうすると、本当の自分を救うことが不可能になります。以下はその例です。
 悪霊は騙しの専門家です。私たちはカリスマの教会ですから、悪霊に悩まされている人で、多少なりともその存在や問題に気付いた人が居て、その追い出しを本人から依頼されることがあります。引き受ける場合、まず本人が悪霊が自分の中に居ることを認識されており、自分の敵として追い出したいと願っておられることが土台になります。しかしそこまで認識できないで悪霊の追い出しを依頼されるケースです。その場合、心の王座に聖霊なる神をお迎えできないので、悪霊は再び戻って来、前より悪い状態になってしまいます。(参照マタ12:43 ルカ11:224)
 悪霊は自分の正体を隠し、宿主を騙します。いつまでも真の罪人である自分の姿を分からせず、自己弁護と高慢で終始します。またその逆に、ひどい不安と落ち込みで自分が無価値な存在として整理しなければと思わせます。こうして昂揚と転落の繰り返しに疲れ果て、最終的には宿主を重度の統合失調症や自殺に至らせようとします。
 そんな苦しさに教会の門を叩き、十字架の贖いによる赦しと悔い改めに導かれ、救われる方が多いです。但し、真の自分を知って悔い改めていることが前提になります。真でなければまさに死んでいません。心の王座は依然として肉なる自分のため、新生していませんし、実がついていません。)自分に聖霊の実が実っているかどうか、どうか吟味下さい。

 さてサタンは今も働いており、巧妙な実に容易ならざる敵です。ですから霊的なことに対しては、神に拠って立つ他ありませんし、十字架のみが勝利をもたらすのです。これら一連のことに対しては、神に選ばれた子であることがポイントになって行きます。

 信じる第2段階とは、真に自分の罪を知らされる、十字架で悔い改め、聖霊が注がれ、新生することが土台になります。もしそうでなく、肉が残っていたら、神に聞き従えず、不従順はサウル王のように、むしろ怒りを買い、裁かれてしまいます。
 神があらかじめ子にしようと選び定められた人々、その人たちは例外なく、言いようも無い世という困難と試練の中で自分に死に、今ではただ神にのみ希望を抱き、世にある限り御心を行おうとする人々こそ、真のクリスチャンです。殉教する前にすでに世で死んでいます。

2022年4月 3日 (日)

信じるって・・・どういうこと

Ⅰペテロ 2章24節   2017新改訳

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 ここでキリストが十字架に架かってくださったのは<私たちの罪を代わりに負ってくださるため>であり、私たちが<罪を離れ、義のために生きるため>であるとペテロは言っています。つまり私たちが自分の罪がわからなければ悔い改めることはできないし、イエス様の十字架の赦しはありません。罪が赦されず残るなら、どんなに自分はクリスチャンだと言っても滅びます。天国には入れません。口先だけの告白では偽りの告白ということになるわけです。

罪が分かる‥‥私は自分の例を出し、罪が分かって信じるには二つの段階があると思っています。まず<最初>についてですが、20歳の時の私の証です。高校生時代には、私はようやく見つけた伝導所で毎水曜日、聖書研究会に欠かさず通っていたのです。聖書に神のいのちがあると思っていましたし、実際そうでした。高校を卒業しようとした時、牧師から受洗を勧められました。なにしろ熱心に聖書を学ぶ子でしたから、できたら受けたかったのです。すごく心が動いたのですが、結局受けませんでした。
一番の問題は信じたかったけども、それは頭の上だけで実感が持てなかったからです。神が聖書の文字上では存在していても、私の体験としては空をつかむような感じで、神様がリアルに存在している感じがなかったのです。
わたしとは真逆のクリスチャンホームで育ち、自然にクリスチャンになった方からも、最近、同じように30歳になるまで罪が分かっていなかったとお便りがありました。人それぞれですが、学生運動に私が挫折し、自分の愚かさが分かって呆然としていた時、ただ星々の規則正しい動きを見て、自分を含め流転する人というものの浅はかさ、愚かさ に比べ、変わらないもの、規則正しく永遠のように運行するもの、つまり秩序というものがあり、それを造られた神がおられる、そういう風に初めて神の存在が実感でき、信じることができ、その足でクリスチャンになるために教会の門をくぐりました。このようにして、自分の罪を認め、神を信じてクリスチャンになったわけですが、新生していないので肉のクリスチャンであって、世の欲望に支配されて勝つことはできていなかったため、世の人々と変わらぬ心の状態でした。いわゆる福音派の人々も同様だろうと思われます。

次に<第二番目の信じる>についてですが、これはいわゆる聖霊のバプテスマです。聖霊のバプテスマを受け、新生しなければ「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」(ヨハネ12章25節)の意味がわかりません。神から与えられ愛されることを、命以上に大切だと思うのは、聖霊の神による力そのものです。しかし今回はここまでにしておきたいと思います。

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