信じるって・・・どういうこと
✝Ⅰペテロ 2章24節 2017新改訳
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
ここでキリストが十字架に架かってくださったのは<私たちの罪を代わりに負ってくださるため>であり、私たちが<罪を離れ、義のために生きるため>であるとペテロは言っています。つまり私たちが自分の罪がわからなければ悔い改めることはできないし、イエス様の十字架の赦しはありません。罪が赦されず残るなら、どんなに自分はクリスチャンだと言っても滅びます。天国には入れません。口先だけの告白では偽りの告白ということになるわけです。
罪が分かる‥‥私は自分の例を出し、罪が分かって信じるには二つの段階があると思っています。まず<最初>についてですが、20歳の時の私の証です。高校生時代には、私はようやく見つけた伝導所で毎水曜日、聖書研究会に欠かさず通っていたのです。聖書に神のいのちがあると思っていましたし、実際そうでした。高校を卒業しようとした時、牧師から受洗を勧められました。なにしろ熱心に聖書を学ぶ子でしたから、できたら受けたかったのです。すごく心が動いたのですが、結局受けませんでした。
一番の問題は信じたかったけども、それは頭の上だけで実感が持てなかったからです。神が聖書の文字上では存在していても、私の体験としては空をつかむような感じで、神様がリアルに存在している感じがなかったのです。
わたしとは真逆のクリスチャンホームで育ち、自然にクリスチャンになった方からも、最近、同じように30歳になるまで罪が分かっていなかったとお便りがありました。人それぞれですが、学生運動に私が挫折し、自分の愚かさが分かって呆然としていた時、ただ星々の規則正しい動きを見て、自分を含め流転する人というものの浅はかさ、愚かさ に比べ、変わらないもの、規則正しく永遠のように運行するもの、つまり秩序というものがあり、それを造られた神がおられる、そういう風に初めて神の存在が実感でき、信じることができ、その足でクリスチャンになるために教会の門をくぐりました。このようにして、自分の罪を認め、神を信じてクリスチャンになったわけですが、新生していないので肉のクリスチャンであって、世の欲望に支配されて勝つことはできていなかったため、世の人々と変わらぬ心の状態でした。いわゆる福音派の人々も同様だろうと思われます。
次に<第二番目の信じる>についてですが、これはいわゆる聖霊のバプテスマです。聖霊のバプテスマを受け、新生しなければ「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」(ヨハネ12章25節)の意味がわかりません。神から与えられ愛されることを、命以上に大切だと思うのは、聖霊の神による力そのものです。しかし今回はここまでにしておきたいと思います。
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