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2022年5月

2022年5月29日 (日)

平和を望む者

詩篇 120篇6節   2017新改訳

この身は平和を憎む者とともにあって久しい。

 詩篇120は、終わりが「私は平和を--、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ」と結ばれる。それで暗く、まるで希望が無いかのような印象をこの詩篇に抱く。確かにこの曲は風のひびき9集ベストセレクションに入るほど歌いやすく良くできているのに、内容的にイマイチと感じる向きが多いと思う。しかしそれは、単に上っ面だけの理解で判断しているのではないだろうか?この120番は<都上りの歌>の歌であって、苦難の末にようやく異邦の地から宮参りができる、その喜びの歌なのだ。

 ユダヤ人が異邦の地で暮らすとはどういうことか、先ず始めにそれを押さえておきたい。結論から言えば、彼らは排斥される定めだ。どんなにその地に幾世代にわたって住み続けようと、その地の住民と混合し、溶け合って一つの民となることはあり得ない。なぜなら彼らは聖書の民であって、その信仰を護っている限り、彼らは異質な存在で有り続ける。実際世界のどこへ行っても同様な状態となる。彼らは嘘をつかず、誠実で約束を守る。絶対的な規範である聖書があるからだ。しかしそれゆえ異邦の民と道徳観、生活、風習が決して交わることはない。もしあればそれは律法で禁じられた堕落をもたらすものとなるのであり、逆にユダヤ人が異邦の地に何代に渡って住もうと、平和を望もうと、その地では異質な存在で有り続ける。
 もし混合するならば、ユダヤ人がサマリヤ人のようになり、ユダヤ人がユダヤ人でなくなることを意味する。どうしても迫害され、排除され(戦い)続けられる定めがユダヤ人であることが、これが二千年の時を経てイスラエルが建国された大きな理由の一と考えられる。

 しかしそのようなユダヤ人の特性が、ベニスの商人で描かれているように同情の余地のない冷徹さも併せもつことになる。彼らユダヤ人は道徳観が聖書を通して鉄壁である。また流浪の民として、世界にネットワークを持っている。そのような彼らは次第に財を形成していくのだろう。我が国ではユダヤ人を迫害する状況に今はまだないが、ヨーロッパのように国内の一部に長年にわたってユダヤ人が居住し続けたならば、どうしても似たような状況になるのではないだろうか。

 このユダヤ人の受けるその疎外感、迫害の歴史が、離散の二千年後、奇跡の現イスラエルを建国し得たとも言えるかもしれない。ただしこの120編はおそらく捕囚期ー捕囚後(紀元前400年ぐらい)までに書かれたものなので、捕囚または奴隷状態の中、つまり弱い立場に置かれた困難の中、第二神殿の建立され、エルサレム帰参が許された喜びで満ちている。
 以上、この都上りの歌の苦しみ・・・「偽りのくちびる、欺きの舌」から一時的にせよ救い出され、都に上ろうとしている喜び、そして迫害する異邦の者たちへの裁きの予告が私たちの胸に迫ってくるものがある。私たち日本人クリスチャンも、天のエルサレムへ都上りする過程にあるのは、よく似ているからだ。

2022年5月22日 (日)

神の国と神の義を求める

マタイ 6章33節   2017新改訳
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます

 本日の聖書箇所は最近の聖書日課にあっただけでなく、常に礼拝での献金の際、歌っている聞き慣れた聖句でもあります。しかしこれに深い意味があり、非常に重要な信仰の核心部分でもあると改めて今回、思いました。
     
 まずなぜこの聖句なのかということですが、きっかけは次の挿絵にあります。
これは上田のとあるそば店の暖簾で知ったことですが、元は京都竜安寺の石庭にあるつくばいにあって「吾れ唯(ただ)足るを知る」と読むようです。つまり「(さまざまな欲望を排して)私は満ち足りていることを知っている」ということでしょうか。本日の聖書箇所も聖書で同じようなことを言っているところではないでしょうか。しかし似ていても、その意味が全く異なっています。
 竜安寺は禅宗ですから、おそらく座禅とかの修行を行なって<悟り>に達した境地のことを言っていると思われます。しかしイエス様が語られていることはそうではありません。

 では本日の聖書箇所の少し前から、その流れを見ていきましょう。このマタイ6章では、その目は常に天に向いています。

 その20節「天に宝を蓄えなさいー中略ー宝のあるところ、そこにあなたの心もある」、24節「だれも二人の主人に仕えることはできません。一中略ー、あなたがたは神と富とに仕えることはできません」とあります。天とその神を人生の中心にし、仕えるならば<世のことを煩うな、父は必要を知っておられる(25−30節)>と説き、33節「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられ」るとしているのです。
 つまり神を第一とする前提条件をクリアするならば、全ての必要は与えられて<足りる>と言われているのです。これは神をただ信じ、聖霊の力とその助けによって、御心を行おうとする者には、神は必要なその全てを与えて下さるという意味であって、個人的な<悟り>とは全く異なるものです。

2022年5月15日 (日)

ヨセフの子と考えられていた

ルカ 3章23節   2017新改訳

イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、

 メシアの出現を預言する数ある預言の中でも、<ダビデの家系から生まれる>と<処女から生まれる>は確認しやすい預言です。
先ず<ダビデの家系から生まれる>は二つありますが、いずれもバテ・シェバへの罪を指摘した預言者ナタンのものです。神はダビデはバテ・シェバとの一件で罪を犯し、その子を罰せられましたが、メシアの家系はそのバテ・シェバの子が選ばれました。つまりその子ソロモンを王権の家系とし、ソロモンと同じ兄弟のナタンを祭司系の家系とされました。数十代の時を経てナタンの預言は驚くべき形で成就しました。夫ヨセフがソロモン系、妻マリアがナタン系という末裔同士の結婚です。この夫婦の長子がイエス・キリストです。※預言者ナタンとバテ・シェバの子ナタンは別人

 また身重のマリヤが親族である祭司ゼカリヤに身を寄せましたが、もしマリヤに罪があるのでしたら、ゼカリヤは受け入れなかったと推察します。しかしゼカリヤは少し前、子ヨハネの誕生をめぐる神の取り扱いを受けた夫婦でしたので、マリアの処女懐妊を信じたと推察されます。

 次にメシアが処女から生まれるということですが,これは本当に超自然的な奇跡中の奇跡、空前絶後のことです。信仰が弱い方は、聖書に書かれてあるこの事実を受け入れることができません。神のことばである聖書より、人間である自分の判断を上に置けばそうなります。しかしそれでは全人類の罪の身代わりとして死んだイエスの神性を否定し、罪の贖いは無効となります。こういうわけで全キリスト教徒にとって、処女懐妊は信仰上の踏み絵です。

 上述の傍証として、イエスが私生児として生まれたという記事は、聖書に数箇所見られます。通常ならば「ヨセフの子」であるのに、「マリアの子」(マルコ6:3)としたことや「ヨセフの子と考えられていた」(ルカ3:23)などの箇所からです。特に「考えられて」などの表現は、イエスがヨセフの実の子であれば大変失礼な表現です。これはヨセフが、実の子ではなくとも、少なくても表向きには自分の子、長子として遇していたことを表していると見るのが普通でしょう。

 マリアもイエスが自分の腹を痛めた子には間違いないのですが、親族の結婚式で「ぶどう酒がなくなった」時、イエスに向かって「ぶどう酒がありません」(ヨハネ2:3)と言う不可解なことを要望するのでしょうか?これは母自らが、イエスが普通の人間ではないと認識していたからではないでしょうか。
 このようにイエス・キリスト出生には、処女からの出生であることを伺わせる傍証が多く、神を信じる者には、神にはそれができることを確信するのです。

2022年5月 8日 (日)

私の御からだはどこ?

エペソ 5章30節   2017新改訳

私たちはキリストのからだの部分だからです。

 きょうのメッセージは、インターネットラジオ「Ein・Karemのトークルーム」で証しした事がきっかけになりました。それは私が神さまの語りかけを実際に体験した時のできごとです。

 悔いて悔いて曜日の感覚をなくしていたその日の朝、今日が日曜日だということが分かった時、「こんな不浄で罪深い者が、教会などに行ってはいけない」と思いました。クリスチャンになって初めて「教会に行けない」と思った朝でした。しかし心はともかく、長年の習慣だったからでしょうか、思いとは裏腹に体が勝手に私を運転席に座らせ、ハンドルを握らせて車を動かしていたのです。後で考えると、これは神の御手が働いていたのだったとしか思えません。なぜならもしあのまま家で私がくすぶっていたら、この後の人生を一変させた体験はなかったことでしょうから。
 人それぞれに特別な出会いがあるでしょうが、特に神様となると、それは限られた方になると思いますし、それは一層特別であり、また念入りにそれは準備されているようです。半時ばかり運転後、目指す教会が見下ろせる高台まで来た時、とつぜん変なことが起こったのです。運転中の車のダッシュボード上にくるくる回るサイコロのような物がいくつも現れ、やがてその回転が順々に収まって行くと、どうやら一つ一つに文字が読めて来るのです。「ワ・タ・シ・は・あ・な・た・を・ア・イ・シ・テ・イ・ル」と。運転中でもあり、はじめこの奇妙な現象に目を取られて、ナ、ナニ?って感じだったのですが、意味が分かってくると、明らかにこれは自分以外の意思であると分かりました。

 やがて私の心に<どーん>と津波のように襲って来るものがあり、体の震えと涙とで圧倒されて行く自分がいました。ですからやっとのことで車を道路の左端に寄せて停めたのです。自暴自棄になって信仰をほぼ失いそうになり、ほとほと自分自身に愛想が尽きたという状態だったのです。その私にこれは何ということばかけだったのでしょうか。以後省きますが、「この世に神が生きて働かれ、愛を持って語りかけてくださるんだ」と驚きを持って体験しました。まさに人生と価値観を一変させる衝撃的な臨在の出会いでした。

 ちょうどペンテコステの日、弟子たちが変えられたように、私も変えられました。夜、少し落ち着いてみると、一つだけはっきりと分かったことがありました。それは「もう、普通の教会(福音派)には行けない」ということです。普通の教会の信仰・・朝にはそこさえも行けないと思っていたのに、夕には「もうそこにも行けない」という確信でした。私はカリスマになってしまったのです。この信仰では、普通の教会では苦しむだろうし、どこへ行けば良いのか、検討もつきませんでした。

私はその夜、御体を求めて祈り、示された方法、ネットの検索で一回だけ押して見たところ、全く未知のTLCCCが現れ、しかも翌日に広島でその聖会があることがわかりました。その聖会に行くと私が来ることが予告預言されていたのです。全く、神の御手は用意周到です。

2022年5月 1日 (日)

信仰と希望

ローマ 15章13節  2017新改訳

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

 今日私たち目にし、耳にするニュースは戦争であり、疫病「コロナ禍」やあたかも「神の小屋」のようなおぞましい事件です。
しかし、どんなに状況が悪くなっても、いや、それだからこそ、私たちにはかえって希望があふれてくるのです。

 この聖句はちょっと抽象的でわかりにくいところかも知れません。しかし、「希望」という言葉を「天の御国への希望」と置き換えてみますと、かなりわかりやすくなります。私たちクリスチャンにとって、神のみがすべてであり、神の国に行けることがすべての希望です。まさかこの世でのことが、最大の希望だというクリスチャンはいないはずです。

 ということから考えてみますと、どんなに暗いニュースがこの地上がどんなにあふれて行く、それこそ終末が近いというあらわれですし、これから患難時代に向かって加速度的に悪くなっていくとしても、それらは「産みの苦しみ」であって、私たちは決して奪われることのない喜びで満ち足りており、近づくリバイバルの足音を聞きながら、常にHappyなのです。それを明示する二つのことがありす。
①聖書 :✝天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
この御言葉は(マタイ2:35、マルコ13:31、ルカ21:33)すべての共観福音書にあって、イエス・キリスト神ご自身が確かに語られた言葉です。私たちは揺れ動き、やがて消え去っていく天地に目を向けるのではなく、旧約のメシア預言からはじまり、福音書や書簡、終末の預言書で語れられている神の言葉を信じています。
 それによれば、これから起こることはすべてあらかじめ語られていることであり、二度の再臨の後、千年王国時代を終え、天の都エルサレムがずいぶん模様替えしたこの地上に降りてくるまでの序章です。これからの患難時代でのリバイバル、それを私たちは満を持して待ち受けるのです。
②交わり:信仰によって私たちは神の子とされる特権を与えられます。しかしこの信仰は、迫害や患難時代に必ず試しを受けなければなりません。「本当に信じる」なら、血肉の自分の命以上に価値を有しているはずです。道端や岩地の上、また荊の生じる土地に生えたのはないことを証する時が来るのです。耐えて良い地の実を実らせ、栄光の主を証しする恵みに預かるのは、その本当に信じているかどうかがポイントになります。
 この「本当に」と言った時、神との直接的な交わりがあり、子としてリアルに父を知っているかどうかが決定的な力となります。これを別な言葉で言えば、思い込みや思い込まされてではなく、真実、聖霊のバプテスマを受け、絶えず御心を行おうとしていることです。新生していることです。

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