神の国と神の義を求める
✝マタイ 6章33節 2017新改訳
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます
本日の聖書箇所は最近の聖書日課にあっただけでなく、常に礼拝での献金の際、歌っている聞き慣れた聖句でもあります。しかしこれに深い意味があり、非常に重要な信仰の核心部分でもあると改めて今回、思いました。
まずなぜこの聖句なのかということですが、きっかけは次の挿絵にあります。
これは上田のとあるそば店の暖簾で知ったことですが、元は京都竜安寺の石庭にあるつくばいにあって「吾れ唯(ただ)足るを知る」と読むようです。つまり「(さまざまな欲望を排して)私は満ち足りていることを知っている」ということでしょうか。本日の聖書箇所も聖書で同じようなことを言っているところではないでしょうか。しかし似ていても、その意味が全く異なっています。
竜安寺は禅宗ですから、おそらく座禅とかの修行を行なって<悟り>に達した境地のことを言っていると思われます。しかしイエス様が語られていることはそうではありません。
では本日の聖書箇所の少し前から、その流れを見ていきましょう。このマタイ6章では、その目は常に天に向いています。
その20節「天に宝を蓄えなさいー中略ー宝のあるところ、そこにあなたの心もある」、24節「だれも二人の主人に仕えることはできません。一中略ー、あなたがたは神と富とに仕えることはできません」とあります。天とその神を人生の中心にし、仕えるならば<世のことを煩うな、父は必要を知っておられる(25−30節)>と説き、33節「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられ」るとしているのです。
つまり神を第一とする前提条件をクリアするならば、全ての必要は与えられて<足りる>と言われているのです。これは神をただ信じ、聖霊の力とその助けによって、御心を行おうとする者には、神は必要なその全てを与えて下さるという意味であって、個人的な<悟り>とは全く異なるものです。
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