平和を望む者
✝詩篇 120篇6節 2017新改訳
この身は平和を憎む者とともにあって久しい。
詩篇120は、終わりが「私は平和を--、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ」と結ばれる。それで暗く、まるで希望が無いかのような印象をこの詩篇に抱く。確かにこの曲は風のひびき9集ベストセレクションに入るほど歌いやすく良くできているのに、内容的にイマイチと感じる向きが多いと思う。しかしそれは、単に上っ面だけの理解で判断しているのではないだろうか?この120番は<都上りの歌>の歌であって、苦難の末にようやく異邦の地から宮参りができる、その喜びの歌なのだ。
ユダヤ人が異邦の地で暮らすとはどういうことか、先ず始めにそれを押さえておきたい。結論から言えば、彼らは排斥される定めだ。どんなにその地に幾世代にわたって住み続けようと、その地の住民と混合し、溶け合って一つの民となることはあり得ない。なぜなら彼らは聖書の民であって、その信仰を護っている限り、彼らは異質な存在で有り続ける。実際世界のどこへ行っても同様な状態となる。彼らは嘘をつかず、誠実で約束を守る。絶対的な規範である聖書があるからだ。しかしそれゆえ異邦の民と道徳観、生活、風習が決して交わることはない。もしあればそれは律法で禁じられた堕落をもたらすものとなるのであり、逆にユダヤ人が異邦の地に何代に渡って住もうと、平和を望もうと、その地では異質な存在で有り続ける。
もし混合するならば、ユダヤ人がサマリヤ人のようになり、ユダヤ人がユダヤ人でなくなることを意味する。どうしても迫害され、排除され(戦い)続けられる定めがユダヤ人であることが、これが二千年の時を経てイスラエルが建国された大きな理由の一と考えられる。
しかしそのようなユダヤ人の特性が、ベニスの商人で描かれているように同情の余地のない冷徹さも併せもつことになる。彼らユダヤ人は道徳観が聖書を通して鉄壁である。また流浪の民として、世界にネットワークを持っている。そのような彼らは次第に財を形成していくのだろう。我が国ではユダヤ人を迫害する状況に今はまだないが、ヨーロッパのように国内の一部に長年にわたってユダヤ人が居住し続けたならば、どうしても似たような状況になるのではないだろうか。
このユダヤ人の受けるその疎外感、迫害の歴史が、離散の二千年後、奇跡の現イスラエルを建国し得たとも言えるかもしれない。ただしこの120編はおそらく捕囚期ー捕囚後(紀元前400年ぐらい)までに書かれたものなので、捕囚または奴隷状態の中、つまり弱い立場に置かれた困難の中、第二神殿の建立され、エルサレム帰参が許された喜びで満ちている。
以上、この都上りの歌の苦しみ・・・「偽りのくちびる、欺きの舌」から一時的にせよ救い出され、都に上ろうとしている喜び、そして迫害する異邦の者たちへの裁きの予告が私たちの胸に迫ってくるものがある。私たち日本人クリスチャンも、天のエルサレムへ都上りする過程にあるのは、よく似ているからだ。
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