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2022年6月

2022年6月19日 (日)

いのち吹き込まれて

マルコ 10章45節   2017新改訳

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

 「人・・・仕えるために・・・来た」 私はこの御言葉を誤解をしている面があった。もし文字通りに牧師が教会員にしもべのようにして仕えるならば、教会は秩序と権威が混乱することになる。この主の言葉の意味は、主ご自身が父に仕えられたように、私たちが主の御心に「仕える」という意味である

 最近になってなってもっとも感じたことは、イエス様はワンパターンで教えられたのではなく、個々人の日々の問題と必要に対応された、まるで特別支援教育のスペシャリストであった点だ。本日はスカルのサマリアの女との出来事を通し、どんなにイエス様が御心に従われ、スペシャルにそれを対応されたかを読み取って、全能なる神をさらに崇めていきたい。

 このサマリア人の女は5回の離婚歴が有り、現在の男は夫ではなかった。だから女同士が集う朝や夕方には井戸に来れなかったのだ。一見ふしだらに見える彼女は、実はたましいの飢え渇きがあった。神はそれを見逃されていなかったし、彼女を通し異邦人伝道の初穂とされた。主は人の中身を見られる。

《しかし、サマリヤを通っていかなければならなかった ヨハネ4:4の御言葉は重要である。これはイエス様があらかじめサマリアの女を選び、福音を伝えるよう神から示されていたことを表す。だから《行かなければならなかった》のである。
 なぜ彼女が選ばれたのだろうか。自分を正当化し、罪の意識の乏しい人に十字架の福音は届かない。同時にたましいの飢え渇きがなければ、満たされ新生したいのちと喜びの泉は湧かない。
 この女は人とか結婚という世に求めていた。しかしそれらはみな砕かれて崩れ、絶望の底に沈んでいたはずである。惨めで人前に出ることすらも憚られていた。この女は単なるふしだらな女ではないことは明らかである。福音を聞いた時、即座にメシア来臨への望みを告白したからである。

 イエス様はこの女に、ご自分がキリストである決定的なことば・・・唯一この後では、十字架刑の決めてになったカヤパへの言葉  マルコ14:61~62 である「あなたと話しているこのわたしがそれです」を語られた。弟子にも語られたことがなかったメシア宣言・・・これは驚くべきことである。
 聖書を通して見れば、信仰を誉められた者はすべて異邦人である。ダイレクトな福音はまず異邦人のサマリアの女に語られ、自分がキリストであることを証しされた。このことは、今日、ユダヤ人を除いて、異邦人が福音信仰で世界を席巻することが御心であったことを暗示している。神の知恵と計画は果てしなく大きく、人が理解することが不可能だ。ただ神をほめたたえる。

2022年6月12日 (日)

しかし神のことばは永遠に立つ

イザヤ 40章8節   2017新改訳

人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。(40章6節~8節)

 六月の特にこの時期、草は生命力にあふれてたくましく成長し、花は美しく咲き誇っていますが、しばらくするとそれらは、必ずしおれ枯れていきます。
 神は人をたとえて言っておられるのです。すぐにしおれ滅びるものにならないで、わたしによって生かされ、永遠のいのちの恵みに生きなさい、と。
 今私たちの教会には、主の息吹が吹いて病いが許され、弱さを覚えさせられている方が多いのではないかと推察します。私たちを祝福してくださるはず の神が、なぜなのでしょうか。これを問う前に前提にすべきことがあります。それは神は愛そのものであって、それ以外の存在ではありません。信じる者を愛されていることです。その方が許しておられるということです。
 そうならばこの病というもの、苦しい症状や治療という困難とはまったく別な神の目的、計画があり、神の御心というものがあるのです。それはお一人お一人がまったく異なるものでしょうが、あるのです。それに気づき、悔い改め、より一層その成就を願い祈ることこそ真に癒される道ではないでしょうか。 (GardenTomb) 園の墓
 イエス様が為さった癒やしはリアルに神を信じ、救われること、つまり福音が目的でした。実際に癒やしを行われる前に、「あなたの罪は許されました」とのことばこのことを語っています。
「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」とはまさにこのことを指しています。肉体への希望は一時のものであって、それはすぐにしおれ、散るもの、滅ぶものです。しかしそうではなく、神のことばの信仰に立って生きる者は、たとえ肉体が滅んでも永遠なのです。肉体が病で弱くされた時こそ、この神への信仰にますます堅く立ち、神を褒め称える時なのです。

 ですからたとえ死が私たちに迫ろうとも、死よりもはるかに素晴らしい、永遠の天への喜びに躍りましょう。死んでも生きる恵みに、今一度感謝と讃美を捧げましょう。そのことを改めて教えてくれる病、肉体において弱くされても、私たちの心、魂はかえって強くされるのです。

2022年6月 5日 (日)

ペンテコステ

使徒 2章1~4節   2017新改訳
 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。  

 ペンテコステは聖霊降臨祭であり、キリスト教会が誕生した日と言われる。イエスが昇天されてこの日までの十日ほど、使徒たちや主だった信者たち120人は一つ心になって、イエスが召天される前に約束された成就を祈っていたはずです。
 実際、別れる前にイエス様は弟子たちに「私が去って行くことは、<《助け主》・《聖霊》が来るので>あなたがたの益になる」と語られていたからです。

 さてこの時の状況を今一度確認しましょう。信仰の力はまだ乏しく、集まってただひたすらこのことを祈っていたはずです。けれども十字架と復活を見た彼らは、罪からきよめられていました。そこに時が来て、凄まじい風と音を伴って聖霊が現れ、一人ひとりの上にとどまったのです。この「このとどまった」と言う言葉に注意しなければなりません。「とどまっ」たのであって、人一人ひとりの意志に従う所有物になったのではありません。聖霊なる神は自由であり、束縛することはできません。とどまられたのであって、サウル王のようにいつか去って行かれるケースも多いのです。

 いずれにしろペンテコステの日、聖霊の注ぎのフラッシュ現象とでもいうようなことが起こった。旧約の預言者や王という特定の人々へにではなく、多くの人に臨まれる新時代が来るという、ヨエルの預言が十字架と復活のみわざによって成就したのです。

 この聖霊の著しい働き、聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)を受けた人々によって、教会ができました。教会とは単に十字架と復活を信じた会衆ではなく、聖霊の満たしを受けた人々の集まりからスタートした、これは教会とはそもそも何かを考える上で非常に重要なことです。
 さて聖霊のバプテスマを受けた時、最初に異言が現れたのですが、異言は諸国の言語であり、その内容は「神の大きなみわざを語る」(使徒2:11)ものでした。ですから異言とは、ただラーラーと繰り返し呟くようなものではなく、異言語であってそれが理解できなかったとしても、神の意思を伝えるメッセージ性を持っていることに注意し、真に神からのものか聞き分けて行きましょう。
 聖霊のバプテスマを受けた人々には威厳よりもっと確かなしるしがありました。それは根本的な価値観が変わった人々であったということです。彼らは自分の財産を売り払うことに躊躇せず、むしろ喜んでしました。一切のものを共有し、日々教会に集って祈りました。なぜでしょうか?それは現世より天にはるかに大きな価値を見出し彼らにとって、この世はふさわしいところではなかったからです。それはイエス様が弟子になりたいと願った人々に対して、例外なく一切のものを捨てて従って来なさいと語られたことと同じです。この世と神の国と両方とも大切ということはありえません。聖霊のバプテスマを真に受けるなら、新生という実が実っているからです。

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