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2022年6月 5日 (日)

ペンテコステ

使徒 2章1~4節   2017新改訳
 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。  

 ペンテコステは聖霊降臨祭であり、キリスト教会が誕生した日と言われる。イエスが昇天されてこの日までの十日ほど、使徒たちや主だった信者たち120人は一つ心になって、イエスが召天される前に約束された成就を祈っていたはずです。
 実際、別れる前にイエス様は弟子たちに「私が去って行くことは、<《助け主》・《聖霊》が来るので>あなたがたの益になる」と語られていたからです。

 さてこの時の状況を今一度確認しましょう。信仰の力はまだ乏しく、集まってただひたすらこのことを祈っていたはずです。けれども十字架と復活を見た彼らは、罪からきよめられていました。そこに時が来て、凄まじい風と音を伴って聖霊が現れ、一人ひとりの上にとどまったのです。この「このとどまった」と言う言葉に注意しなければなりません。「とどまっ」たのであって、人一人ひとりの意志に従う所有物になったのではありません。聖霊なる神は自由であり、束縛することはできません。とどまられたのであって、サウル王のようにいつか去って行かれるケースも多いのです。

 いずれにしろペンテコステの日、聖霊の注ぎのフラッシュ現象とでもいうようなことが起こった。旧約の預言者や王という特定の人々へにではなく、多くの人に臨まれる新時代が来るという、ヨエルの預言が十字架と復活のみわざによって成就したのです。

 この聖霊の著しい働き、聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)を受けた人々によって、教会ができました。教会とは単に十字架と復活を信じた会衆ではなく、聖霊の満たしを受けた人々の集まりからスタートした、これは教会とはそもそも何かを考える上で非常に重要なことです。
 さて聖霊のバプテスマを受けた時、最初に異言が現れたのですが、異言は諸国の言語であり、その内容は「神の大きなみわざを語る」(使徒2:11)ものでした。ですから異言とは、ただラーラーと繰り返し呟くようなものではなく、異言語であってそれが理解できなかったとしても、神の意思を伝えるメッセージ性を持っていることに注意し、真に神からのものか聞き分けて行きましょう。
 聖霊のバプテスマを受けた人々には威厳よりもっと確かなしるしがありました。それは根本的な価値観が変わった人々であったということです。彼らは自分の財産を売り払うことに躊躇せず、むしろ喜んでしました。一切のものを共有し、日々教会に集って祈りました。なぜでしょうか?それは現世より天にはるかに大きな価値を見出し彼らにとって、この世はふさわしいところではなかったからです。それはイエス様が弟子になりたいと願った人々に対して、例外なく一切のものを捨てて従って来なさいと語られたことと同じです。この世と神の国と両方とも大切ということはありえません。聖霊のバプテスマを真に受けるなら、新生という実が実っているからです。

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