いのち吹き込まれて
✝マルコ 10章45節 2017新改訳
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
「人・・・仕えるために・・・来た」 私はこの御言葉を誤解をしている面があった。もし文字通りに牧師が教会員にしもべのようにして仕えるならば、教会は秩序と権威が混乱することになる。この主の言葉の意味は、主ご自身が父に仕えられたように、私たちが主の御心に「仕える」という意味である
最近になってなってもっとも感じたことは、イエス様はワンパターンで教えられたのではなく、個々人の日々の問題と必要に対応された、まるで特別支援教育のスペシャリストであった点だ。本日はスカルのサマリアの女との出来事を通し、どんなにイエス様が御心に従われ、スペシャルにそれを対応されたかを読み取って、全能なる神をさらに崇めていきたい。
このサマリア人の女は5回の離婚歴が有り、現在の男は夫ではなかった。だから女同士が集う朝や夕方には井戸に来れなかったのだ。一見ふしだらに見える彼女は、実はたましいの飢え渇きがあった。神はそれを見逃されていなかったし、彼女を通し異邦人伝道の初穂とされた。主は人の中身を見られる。
《しかし、サマリヤを通っていかなければならなかった ✝ヨハネ4:4》の御言葉は重要である。これはイエス様があらかじめサマリアの女を選び、福音を伝えるよう神から示されていたことを表す。だから《行かなければならなかった》のである。
なぜ彼女が選ばれたのだろうか。自分を正当化し、罪の意識の乏しい人に十字架の福音は届かない。同時にたましいの飢え渇きがなければ、満たされ新生したいのちと喜びの泉は湧かない。
この女は人とか結婚という世に求めていた。しかしそれらはみな砕かれて崩れ、絶望の底に沈んでいたはずである。惨めで人前に出ることすらも憚られていた。この女は単なるふしだらな女ではないことは明らかである。福音を聞いた時、即座にメシア来臨への望みを告白したからである。
イエス様はこの女に、ご自分がキリストである決定的なことば・・・唯一この後では、十字架刑の決めてになったカヤパへの言葉 ✝マルコ14:61~62 である「あなたと話しているこのわたしがそれです」を語られた。弟子にも語られたことがなかったメシア宣言・・・これは驚くべきことである。
聖書を通して見れば、信仰を誉められた者はすべて異邦人である。ダイレクトな福音はまず異邦人のサマリアの女に語られ、自分がキリストであることを証しされた。このことは、今日、ユダヤ人を除いて、異邦人が福音信仰で世界を席巻することが御心であったことを暗示している。神の知恵と計画は果てしなく大きく、人が理解することが不可能だ。ただ神をほめたたえる。
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