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2022年7月

2022年7月31日 (日)

もう一人の助け主

ヨハネ 14章16節   2017新改訳

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

 ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中でも特別な福音書です。共観福音書と呼ばれる他の福音書と比べ、最もイエス様に愛され、いつも近かった使徒ヨハネの福音書です。内容も濃密で、中でも13章から17章はヨハネだからこそ理解し、書き留められた主の御心のことば集です。私たちイエス様を愛する者がこれを聞いて、激しく心を揺り動かされないではいられません。

 本日は新しい戒めー「愛し合いなさい」という意味、ぶどうに例えられた実をつけ、実らせる意味、最後に「何でも求めなさい」‥‥この三つの事柄が、実はもう一人の助け主=聖霊を送られることによって一つに融合され、意味がわかるものであることを、解き明かそうとするものです。

 結論から言いますと、十字架によって約束のもう一人の助け主、つまり聖霊様が私たちに来られることが可能になりました。罪の難関が突破されたからです。しかし多くのクリスチャンと称される方は、聖霊様を自分のしもべに貶めています。つまり、「何でも祈り求めてよいのです」を盾に、自分の必要を満たす祈りをしているからです。
 確かに乳飲み児の場合は良いでしょう。しかし少し成長するなら、自分の父や主人に、そんな要求をする子やしもべがいるでしょうか。ただし、御心の祈りであれば、すべて叶えられて行くのは当然です。

 神が私たちを愛してくださったので、私たちは神を「愛する」ようになりました。特に聖霊のバプテスマを受ければ、神の御心を知る者となり、神の愛とあわれみの深い恵みのゆえに、もはや自分は死んで新生し、、ひたすら神の御心を行いたい一心になります。何でも祈り求めて良い、にすでに我が身のことは入りません。「互いに愛し合いなさい」の戒めが、自分という肉の力ではできませんでしたが、聖霊様からの力、愛の注ぎによって変えられて行くのでした。

 このことをイエス様は農夫とぶどうの木、それとぶどうの実にたとえて教えてくださいました。もちろん私たちはぶどうの実です。不可能が可能になった時、神の力を知り、決して幹から離れては何もできないこと、神を崇め、一層の謙遜にされるのです。

2022年7月24日 (日)

祈りについての教え

ルカ11章9節   2017新改訳

ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

 白馬本キャンプの二日目の早天聖会で、非常に興味を惹かれる二つのメッセージがありました。一つは問題や困難にあっても、この後に来る神の計画と栄光に比べれば、産みの苦しみであり、現状は取るに足りないことだと神を一層信頼するメッセージでした。
 続いてメッセージは、しつこく神に祈り求めることで願いは叶えられていくと、あくまで自分の願いを求め続けることで叶えられていくとされたのです。
 この二つのメッセージはどちらも聖書的には正しいと言えますが、真逆のことを言っているように思えます。困難に対し、神の大きな計画に委ねて行くものと、反対に真夜中であろうと隣家の友人を叩き起こしてパンを手に入れる。表面的には正反対のメッセージだったからです。

 ルカ伝11章でイエス様は「主の祈り」に続いて三つの教えを語られました。先ほどの非常識な隣家の友人などに続いて、締めくくりになる13節にこう語っておられるのです。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と。つまり天の最善の贈り物とは聖霊なのです。聖霊のバプテスマに優る神からのものはないのです。

 さてそれでは、先の二つのメッセージに戻っていきましょう。実は両者は全く矛盾していません。何でも神に祈り求めても良い、確かにその通りです。しかし非常識な友人も、シドン人の女も、いずれも自分のためではない、執り成しの祈りでした。損得のない、友達や子ども・・・・つまり「隣人愛」によるものですから、神に聞かれるわけです。
 ところが自分に対してはどうでしょうか。これには御心を損なう自己愛という罪のハードルがあります。ヤコブの子ヨセフの試練困難も、自己愛を打ち砕き、星や砂の数ほどの国民をつくる、神の約束の計画の成就にありました。この訓練パターンは、使徒パウロに至るまで、神が用いようとした人物への変わらぬ訓練課程です。
 私たちはしつこく自分のことを祈り求めて良いのです。祈りに導かれるならすべて良し、なのですが、霊的な乳幼児に対してと、愛と訓練が必要な子ども時代、聖霊のバプテスマを受け、新生し、神を知り、交わり、神への愛から御心を行おうとする青年期とでは、それぞれに神の対応が異なっているのは、むしろ当然のことです。
 大切なことは、何があっても幼子のようにひたすら神を慕い求め、愛することです。神は私たちの罪性に必要な訓練を与えられますが、子であればそれが自分にとって必要なことがわかります。ですから私の罪のために身代わりに十字架に架かってくださった父の愛から、この私たちが離れることは決してありません。

2022年7月17日 (日)

私の名を名乗る者

ルカ 21章8節  2017新改訳

イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。

 弟子たちは終末のしるしをイエス様に聞きましたが、兆候は21章で語られた通りです。しかしその時がいつなのか、日時を決めるような決定的なことは天使たちも、主ご自身でさえも知らないと語られているのです。
 さて終末が近づくと戦争や社会不安、飢饉や疫病、天変地異などが起こり、これらに乗じてキリスト教の異端が勢いを増してきます。主が語られたように、偽キリストが現れてくるのです。本日は安倍元総理が暗殺されて一週間余り、この歴史的事件の背景、旧統一原理との関わりが徐々に明らかになってきました。この国では私たちも一括りにキリスト教として同一視されかねません。きちんとした把握と対応をしておく必要を迫られてのメッセージいたします。

 事件の詳しい背景を省きますが、要するに容疑者の母親を狂わせた旧統一原理への恨みが暗殺の原因でした。この教団に関しては四、五十年前から国会でも問題になっており、韓国のこの教団は、特に日本を韓国本部への貢物の国として信者から資金を吸い上げる役割を持たせています。すべてのお金を献金するだけでなく、借金までして、当然自己破産までして献金することが多いのです。そのために山上容疑者の家族は経済が困窮し、教団に恨みを持ち、それを晴らすため、わずかな接点でしかなかった安倍元総理を殺害する意図を持ったのでした。

 このカルト教団は名前を変え、勧誘に際しても正体を隠して行い、現在まで生き残っていたことも驚きですが、私たちにおける「十分の一献金」や「すべてを捧げる」、あるいは霊の戦いなどの「霊的対応」など、聖書もキリスト教も知らない一般の人から見たら、たぶんに「どこが違うの?」と誤解されることでしょう。もちろん全然異なるのですが、そのことを詳しく説明しても、私の体験では納得していただくことは困難です。
 なぜなら信仰は信じることから始まりますので、信じていない人にとって、言えば言うほど自己弁解に聞こえてしまうようです。本物を知らない人が、本物を見分けることは困難なのです。

 ではどうすれば良いのか?それは私たち真の信者が<実>を実らせたキリストの証人としての使命を果たすことです。元々私たちは救われるべき何らかの価値を有し、優れて力があり、見分ける目があったので、クリスチャンになったのではありません。そうではなく「世界の基が据えられる前からー中略ーみこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:4)のですから、私たちの内に住まわれる聖霊様の力と恵が流されるよう無私になって聞き従い、聖霊様の愛と真心、謙遜による実を豊かに証して行くことしか希望はないのです。
どうかそのことを祈り、求めてまいりましょう。これは御心ですから、祈りは必ず成就するのです。

2022年7月10日 (日)

神の国はどこに

ルカ17:20~21  2017新改訳
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。

「神の国はあなたがたのただ中にある」とありますが、そう聖書で語られて、単純に喜んでいるか、何だかよく分からないでキョトンとしている、そんな人たちが多いのではないでしょうか。先週私はルカ11:9での有名な「求めなさい、そうすれば与えられます」を次のようにお話ししました。「(聖霊を)求めなさい」であると。
 神に祈る時、多くの方は七夕の短冊や神社でお賽銭をあげての願掛けの類に近い祈りをしていらっしゃるようです。それはそれまでの経験上、<祈りが神に答えられた>ことはない現実があって、その確信など持ちようがないためではないでしょうか。別に親族や仕事上の祈りをしてはいけない、と申し上げてはいません。ただそれらは、私たちの弱さから来る肉的な祈りです。
 もし私たちが神のみこころを祈るならば、それは必ず成就します。神に不可能はないからです。しかし多くの方は神のみこころではなく、自分の必要、希望、欲求を祈ってしまうのです。それでは、よほどの神のあわれみで聞かれる、稀なケースでしかあり得ないでしょう。
 私たちはどんなことでも感謝します。私たちが祈る肉的なさまざまなことは、神が許されて存在していることです。ですから個々人に問題を許されている、その背後にある神のみこころを知らずに肉的な祈りをすることは、見ようによっては、神の計画に背いていると言えます。

 それでは私たちは如何にして、神のみこころを知ることができるのでしょうか。神のみこころは、同じ神である聖霊を通して意外、私たちは知る術がありません。それ故にルカ11:13で祈りに対してオンリーワンの答え「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と述べてあるわけです。聖霊様を与えてくださること、これこそがみこころを知る唯一の方法であり、みこころを行って私たちが天に宝を積む道です。
 ですから皆さん、聖霊を求めましょう。聖霊の満たし、バプテスマが必須です。新生した心は、もはや自分の願いや求めを祈ることは後回しで、ただただ愛する主のみこころの成就を祈り求めるのです。

2022年7月 3日 (日)

求めなさい。そうすれば与えられる

ルカ 11章9節13節   新改訳2017

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 ルカ11章9節のこのみことばは、「とにかく神に祈って求めれば、叶えられる」と受け取られがちです。しかし祈っても確実に答えられているわけではないようで、失礼ですが人によっては、強迫観念とか願掛けやお百度参りの部類に近いのかもしれません。
 確かに私たちに祈る必要は多く、祈ることは大切です。祈りにいのちを見出し、クリスチャン生活の恵み、醍醐味の一つです。まさに「祈ってナンボ」とすら言えるでしょう。この機会に祈りについて、叶えられる祈りとそうでない祈り、今一度みことばから考えてみましょう。
 
 見落としてはならないのに、この9節の少し後の13節に、このようなことばがあることです。
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。
 ここで神が求める者への与えてくださるもの、それは実際に必要なパンや魚よりも、聖霊だと言われています。聖霊、それは必須で最良のものなのです。それはまるで「(聖霊を)求めなさい。そうすれば与えられます。(聖霊を)探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば(聖霊が)開かれます。(同9−10節)」と言われているようです。

 わたしたちは普段、自他の病いの癒やしや物質的必要、家族や人間関係等での必要に迫られて祈ります。もちろんそれらは必要なことで、わたしたちは神に解決の希望を持ち、期待します。しかし見ようによっては、すべてのことが神に許されて起こる出来事のはずなので、すべて感謝し受け入れているはず‥‥にも関わらず、それでも現状の変更を求めて祈る‥‥明らかに矛盾しています。つまりこのような祈りは肉的な祈りであって、神に聞かれるとか、答えていただけると思ってはなりません。しかし時には神のあわれみによって、時に叶うケースもあるでしょうが。

 聖書ではこのただみこころだけが成ることを次のように言っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。(ヨハネの福音9:31) また次のみことばもあります。何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる(1ヨハネ5章14節)

 どうして祈りが叶えられないのでしょうか。それはみこころを知ることもなく肉的な祈りをし、神を自分の欲求実現のための召使いにしているためです。みこころは、ご聖霊様を通して知る意外に術はありません。それゆえに神は私たちに聖霊様を求めなさい、聖霊を探しなさいと求める者に聖霊様を贈ろうとしておられるのです。聖霊が私の主となるその満たし、バプテスマを受け、みこころを知るならば、自分の願いや欲求など、実に取るに足りないことであることがわかるのです。

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