もう一人の助け主
✝ヨハネ 14章16節 2017新改訳
そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中でも特別な福音書です。共観福音書と呼ばれる他の福音書と比べ、最もイエス様に愛され、いつも近かった使徒ヨハネの福音書です。内容も濃密で、中でも13章から17章はヨハネだからこそ理解し、書き留められた主の御心のことば集です。私たちイエス様を愛する者がこれを聞いて、激しく心を揺り動かされないではいられません。
本日は新しい戒めー「愛し合いなさい」という意味、ぶどうに例えられた実をつけ、実らせる意味、最後に「何でも求めなさい」‥‥この三つの事柄が、実はもう一人の助け主=聖霊を送られることによって一つに融合され、意味がわかるものであることを、解き明かそうとするものです。
結論から言いますと、十字架によって約束のもう一人の助け主、つまり聖霊様が私たちに来られることが可能になりました。罪の難関が突破されたからです。しかし多くのクリスチャンと称される方は、聖霊様を自分のしもべに貶めています。つまり、「何でも祈り求めてよいのです」を盾に、自分の必要を満たす祈りをしているからです。
確かに乳飲み児の場合は良いでしょう。しかし少し成長するなら、自分の父や主人に、そんな要求をする子やしもべがいるでしょうか。ただし、御心の祈りであれば、すべて叶えられて行くのは当然です。
神が私たちを愛してくださったので、私たちは神を「愛する」ようになりました。特に聖霊のバプテスマを受ければ、神の御心を知る者となり、神の愛とあわれみの深い恵みのゆえに、もはや自分は死んで新生し、、ひたすら神の御心を行いたい一心になります。何でも祈り求めて良い、にすでに我が身のことは入りません。「互いに愛し合いなさい」の戒めが、自分という肉の力ではできませんでしたが、聖霊様からの力、愛の注ぎによって変えられて行くのでした。
このことをイエス様は農夫とぶどうの木、それとぶどうの実にたとえて教えてくださいました。もちろん私たちはぶどうの実です。不可能が可能になった時、神の力を知り、決して幹から離れては何もできないこと、神を崇め、一層の謙遜にされるのです。