祈りについての教え
✝ルカ11章9節 2017新改訳
ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
白馬本キャンプの二日目の早天聖会で、非常に興味を惹かれる二つのメッセージがありました。一つは問題や困難にあっても、この後に来る神の計画と栄光に比べれば、産みの苦しみであり、現状は取るに足りないことだと神を一層信頼するメッセージでした。
続いてメッセージは、しつこく神に祈り求めることで願いは叶えられていくと、あくまで自分の願いを求め続けることで叶えられていくとされたのです。
この二つのメッセージはどちらも聖書的には正しいと言えますが、真逆のことを言っているように思えます。困難に対し、神の大きな計画に委ねて行くものと、反対に真夜中であろうと隣家の友人を叩き起こしてパンを手に入れる。表面的には正反対のメッセージだったからです。
ルカ伝11章でイエス様は「主の祈り」に続いて三つの教えを語られました。先ほどの非常識な隣家の友人などに続いて、締めくくりになる13節にこう語っておられるのです。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と。つまり天の最善の贈り物とは聖霊なのです。聖霊のバプテスマに優る神からのものはないのです。
さてそれでは、先の二つのメッセージに戻っていきましょう。実は両者は全く矛盾していません。何でも神に祈り求めても良い、確かにその通りです。しかし非常識な友人も、シドン人の女も、いずれも自分のためではない、執り成しの祈りでした。損得のない、友達や子ども・・・・つまり「隣人愛」によるものですから、神に聞かれるわけです。
ところが自分に対してはどうでしょうか。これには御心を損なう自己愛という罪のハードルがあります。ヤコブの子ヨセフの試練困難も、自己愛を打ち砕き、星や砂の数ほどの国民をつくる、神の約束の計画の成就にありました。この訓練パターンは、使徒パウロに至るまで、神が用いようとした人物への変わらぬ訓練課程です。
私たちはしつこく自分のことを祈り求めて良いのです。祈りに導かれるならすべて良し、なのですが、霊的な乳幼児に対してと、愛と訓練が必要な子ども時代、聖霊のバプテスマを受け、新生し、神を知り、交わり、神への愛から御心を行おうとする青年期とでは、それぞれに神の対応が異なっているのは、むしろ当然のことです。
大切なことは、何があっても幼子のようにひたすら神を慕い求め、愛することです。神は私たちの罪性に必要な訓練を与えられますが、子であればそれが自分にとって必要なことがわかります。ですから私の罪のために身代わりに十字架に架かってくださった父の愛から、この私たちが離れることは決してありません。
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