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2022年8月

2022年8月28日 (日)

世に打ち勝つ信仰

Ⅰヨハネ 5章4~5節   2017新改訳

神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

 「聖書は誤りなき神のことば」だと信じることがどんなに大切か、そのことをリバイバルナイトでの木原ヨハネ副牧師は強く証しされたのです。「聖書のみことばは神のことばである」、これが頭で分かっているのではなく、はっきりと体験できるのは聖霊の働きによるのです。   聖書はすべて神の霊感によるもの(2テモ3:16)と聖書自身が証していることなのですが。執筆者は神であって、人はその忠実な書記に過ぎないのですから、聖霊様の助けなしに<神のことば>が神のことばであることが分かることは不可能です。

 聖書について考えてみれば、私たちの信仰、教会、生活など、そのすべてが聖書に源を発し、聖書を拠り所とし、聖書を究極的な目標としています。聖書以外の教会の伝統とか、神に準じる代理人的な権威というものは一切存在しません。ですから聖書だけが私たちの全基準なので。。

 聖書を基準とする一例としてLGBT+があります。聖書では男色は、はっきりと神の国を相続できないと記されています。最近の遺伝子調査においても、性的指向(LGB)を決定する遺伝子は見つからず、基本的には(胎児期を含めた)環境による影響が大きいとされています。ですからこれは障害ではなく、直ることが可能です。私たちはこのような人々をも愛し、立ち直れるよう祈りを持って神に取り成す、というのが聖書的な正しい方法だと言えるでしょう。

 私たちは聖書によって、聖書自体が神のことばであり、三位一体である主イエスの神性を信じます。主イエスが神でなければ十字架の意味がないのです。又罪の赦しに、主イエス以外のいかなる仲介もあり得ません。免罪符、告解、イエスの生母マリアの無原罪などを否定します。聖書では世の権力や進化論も関わりがありません。

 しかしキリスト教会の歴史を見ると、聖霊は子孫に継承されることは困難です。あくまで神のもの、人のものではないからです。ひとたび聖霊を失うなら、父が神のことばとした聖書も、子は一般の書物と同じように、自分達人間の力と視点で神のことばを判断しようとするのです。そしてそれがキリスト教会で普通になっていくのです。私自身も、木原副牧師のような体験をするまでは、人間的な理解に終始し、みことばは私にとって力のないものでした。こうして聖霊を受けていないクリスチャンと教会、つまり死んだようなキリスト教が今や真のクリスチャンを迫害するのです。

 私たちはこの世の知恵で聖書を見下ろす彼らの不信仰を受け入れてはいけません。そして神のことばである聖書を、聖霊様の助けと説き明かしによって神のみこころを知り、みこころを行う者となるよう祈りましょう。神のことばは神のことばと悟らせる聖霊様の導きによって読むのです。

2022年8月21日 (日)

永遠のいのち -行き着くところは-

✝ ローマ 6章23節   2017新改訳 

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 今のこの国の社会で「自分の命よりも大切なものがあります」と言へば、おそらく人々は驚くだろうし、理解できない変人とか危険視扱いされるのがオチであろう。逆に言えば、ほとんどの人は、自分の命以上の価値を知らないと言っていいかも知れない。

 金曜日の夜遅く、ベランダで一人、本日のテーマを祈り、模索していた時のこと。突然「キキキッ」と大きな蝉の鳴き声がして、すぐ近くで蝉のぶつかる音がした。すぐに静かになったので、気にもしないで祈り続け、終わって部屋に入ろうとドアを開けると、差し込んだ部屋の光で、蝉が私の足元でひっくり返っていた。たぶん死んでいたどろう。

 血肉の命が終わっても人には霊があり、永遠のいのちの世界があることを、どれほど多くの人が真剣に考えているのだろうか?もし、永遠のいのちを知らずに死ぬなら、まことに失礼ながら,この蝉とどこが異なるのだろうかと私は思う。蝉も、人も、果たすべき命の勤めを果たして、やがて共に土に還るのだ。そこに相違はない。
 しかし人はそれだけで終わりではない。滅ぶことのない永遠の人間の霊は、その後、天国(神の国)と地獄(ゲヘナ)のいずれかで生き続けることになる。もし地獄に行けば、永遠の苦しみの中で、滅べないことを嘆き続ける事になる。生前の罪がこの二つの国を隔てている。法律上の罪ではない。ただ十字架によってその罪が赦され、罪なき人だけの天国人となれる。
<ヨハネ5:24~信じる者は、-略-さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています>

十字架の<罪の赦し>が無ければ、すべては裁かれ、滅びに至る。キリストを信じる者だけが永遠のいのちを得る。その上で、神はご自分を信じた私たちを「わたしの兄弟、姉妹」としてくださるのだ。何という恵み、喜びが天の国ではあるのだろう。

<マタイの福音書 12章49~50節~イエスは弟子たちの方に-略-だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです>

 私たちは自分の力や努力でイエス・キリストを信じ、神の子とされ、兄弟だとされたのではなかった。神が、この世で生を受ける前に私たちを愛し、あらかじめ信じる者として下さった。だから決して誇ることなく、ただひたすら神に感謝をしよう。この世では、取るに足りない私を愛して下さった神に。

マタイ12章49~50節 ~イエスは弟子たちの方に-略-だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです

 私たちは自分の力や努力でイエス・キリストを信じ、神の子とされ、兄弟だとされたのではなかった。神が、この世で生を受ける前に私たちを愛し、あらかじめ信じる者として下さった。だから決して誇ることなく、ただひたすら神に感謝をしよう。世ではこの、取るに足りない私を愛して下さった神に。

2022年8月14日 (日)

癒やしとしるしと不思議

✝ 使徒 4章30節  2017新改訳

  また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。

 ペテロとヨハネが留置された夜から教会は二人のことを一晩中祈っていましたので、恐れずに証した報告と祈りを聞くと(31節)「集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」のでした。二回目のペンテコステのような出来事が起こったのです。
 信者が自分の財産一切を差し出して共有したエルサレム教会の有り様は、このような聖霊に満たしによって起こったのです。聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)は、単に異言が出る表面的な現象を指すのではなく、その人の価値観が救いの恵みと喜びに溢れ、現世的な思考が払拭され、新生していなければ不可能です。御心一番、御霊に生きる者に変えられた姿です。

 このように聖霊の満たしによる<癒やしとしるしと不思議>は福音を大きく前進させます。人間的な伝道の努力をはるかに凌駕する神の働きです。これから始まる終末のリバイバルでは、私たちは「後の雨」として再びこの<癒やしとしるしと不思議>が大規模に現れることを知っています。大勢の人々がこれによって、救われて行くことも分かっています。しかしその時には、導火線のような証し人、信仰者が要るのです。私たちの教会はその使命を負っている教会です。ですから私たちはこの<癒やしとしるしと不思議>を祈り求めるのです。

 ところで<癒やしとしるしと不思議>をオールインワンでもたらす決定打があります。それは<死者のよみがえり>です。聖書には七つのよみがえりが記述されていますが、その中でも使徒ペテロを通しての奇蹟、ドルカスのよみがえりについて触れて参ります。

 七つのよみがえりの中でもペテロが「タビタ、起きなさい」と言葉によってよみがえらせたのは特別です。ペテロはヨッファの信徒たちに「よみがえりの奇蹟」を依頼されて、おそらく神に指示されてドルカスの所に来ました。ドルカスをよみがえらせたペテロは使徒の中でもさらに強められ、直後のコルネリウスとの出来事を通して、異邦人伝道を大きく開く最初の突破口となりました。
 実はこの教会にドルカスという洗礼名の婦人がいますが、聖書のドルカス少し似ているところがあります。ドルカスがペテロを通してよみがえりましたが、実はこのドルカスもペテロと結婚することによって、自分らしい自分に、生きかえったようになったのです。この結婚のために、バルナバのように、すべてを捨てることに躊躇しませんでした。そして見知らぬ地に来て、多少の苦労はしていますが、喜んでおり、後悔をしていません。なにしろ本来の自分に戻れて歩んでいるのですから。このドルカスという洗礼名がもたらされたエピソードや確認事項もあるのですが、それは長くなるので省かせていただきます。考えてみれば、実に大きな私的な奇蹟です。

 

 

 

 

 

 

2022年8月 7日 (日)

永遠のいのち

ヨハネ 20章31節   2017新改訳
 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 ヨハネ伝の20章の最後に、神のことば(聖書)が真理であるとし、その真理は信じる人々がキリストを信じて、(永遠の)いのちを得るためだとしてある。※参照ヨハネ17:17また、御名を信じていのちを得た者は、神が守られるのでだれも滅びないともある。

 では、永遠のいのちとは、どういうものだろうか?少しそれを考えてみたい。
 すでに多くのクリスチャンが理解しているように、人はハイブリッドエンジンのように、肉体の命と霊のいのちの二つのいのちを有している。ただその違いは、肉体の命は死によって終わるが、霊的ないのちは滅びないことにある。滅びない霊のいのちであるが、肉体の命がある間、自分の罪にどう対処したかによって、千年王国の終わり、最後の審判で大きく行く先が異なってしまう。罪が残る者はゲヘナに落とされ、死ぬことも許されない永遠の苦しみにあうことになる。これは身の毛のよだつような苦しみの世界なので、心が滅んでしまう意味で、滅びの世界である。
 
 しかしキリストの十字架を真に信じる者は、十字架によって罪が赦されるので、審かれず、罪の無い人々の神の国で、神とともに永遠に生きることになる。そこにはもはや死も苦しみも悲しみもない。神とともに生きる永遠の喜びの世界である。ゲヘナとは正反対の光の場所であるが、ひとえに十字架の恵み世界である。

 ここに一つ問題がある。それは人の罪深さである。おそらく血肉の命がある間は、<私という罪性>が完全に消滅することは、はなはだ困難だ。しかし神からの試練・困難によって、自分がどれほど罪深い存在であって、神のみこころが結果的にいかに正しく、愛に満ち、信頼すべきものかを思い知るのである。それゆえ、人である自分の考えや思いより、神に聞き従うことが最善で、それを選ぶ者に変わることができる。それ故どんなに肉的な惑わしが来たとしても、神を信じる者は悩み苦しむかも知れないが、最終的には神のみこころを選ぶのだ。

 神は愛する者を訓練される。そして耐えた者は神の愛を知る。いやいやながらではなく、神を愛し、心から神のみこころを行おうとするのだ。これを新生といい、罪の勝利者となる。もちろん、神のみこころがわかるためには、試練や困難を通しての聖霊の注ぎかけ、聖霊のバプテスマを受ける事が前提になる。さあ主にある者は、どんな時でも心から神に感謝しよう。  

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