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2022年8月 7日 (日)

永遠のいのち

ヨハネ 20章31節   2017新改訳
 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 ヨハネ伝の20章の最後に、神のことば(聖書)が真理であるとし、その真理は信じる人々がキリストを信じて、(永遠の)いのちを得るためだとしてある。※参照ヨハネ17:17また、御名を信じていのちを得た者は、神が守られるのでだれも滅びないともある。

 では、永遠のいのちとは、どういうものだろうか?少しそれを考えてみたい。
 すでに多くのクリスチャンが理解しているように、人はハイブリッドエンジンのように、肉体の命と霊のいのちの二つのいのちを有している。ただその違いは、肉体の命は死によって終わるが、霊的ないのちは滅びないことにある。滅びない霊のいのちであるが、肉体の命がある間、自分の罪にどう対処したかによって、千年王国の終わり、最後の審判で大きく行く先が異なってしまう。罪が残る者はゲヘナに落とされ、死ぬことも許されない永遠の苦しみにあうことになる。これは身の毛のよだつような苦しみの世界なので、心が滅んでしまう意味で、滅びの世界である。
 
 しかしキリストの十字架を真に信じる者は、十字架によって罪が赦されるので、審かれず、罪の無い人々の神の国で、神とともに永遠に生きることになる。そこにはもはや死も苦しみも悲しみもない。神とともに生きる永遠の喜びの世界である。ゲヘナとは正反対の光の場所であるが、ひとえに十字架の恵み世界である。

 ここに一つ問題がある。それは人の罪深さである。おそらく血肉の命がある間は、<私という罪性>が完全に消滅することは、はなはだ困難だ。しかし神からの試練・困難によって、自分がどれほど罪深い存在であって、神のみこころが結果的にいかに正しく、愛に満ち、信頼すべきものかを思い知るのである。それゆえ、人である自分の考えや思いより、神に聞き従うことが最善で、それを選ぶ者に変わることができる。それ故どんなに肉的な惑わしが来たとしても、神を信じる者は悩み苦しむかも知れないが、最終的には神のみこころを選ぶのだ。

 神は愛する者を訓練される。そして耐えた者は神の愛を知る。いやいやながらではなく、神を愛し、心から神のみこころを行おうとするのだ。これを新生といい、罪の勝利者となる。もちろん、神のみこころがわかるためには、試練や困難を通しての聖霊の注ぎかけ、聖霊のバプテスマを受ける事が前提になる。さあ主にある者は、どんな時でも心から神に感謝しよう。  

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