永遠のいのち -行き着くところは-
✝ ローマ 6章23節 2017新改訳
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
今のこの国の社会で「自分の命よりも大切なものがあります」と言へば、おそらく人々は驚くだろうし、理解できない変人とか危険視扱いされるのがオチであろう。逆に言えば、ほとんどの人は、自分の命以上の価値を知らないと言っていいかも知れない。
金曜日の夜遅く、ベランダで一人、本日のテーマを祈り、模索していた時のこと。突然「キキキッ」と大きな蝉の鳴き声がして、すぐ近くで蝉のぶつかる音がした。すぐに静かになったので、気にもしないで祈り続け、終わって部屋に入ろうとドアを開けると、差し込んだ部屋の光で、蝉が私の足元でひっくり返っていた。たぶん死んでいたどろう。
血肉の命が終わっても人には霊があり、永遠のいのちの世界があることを、どれほど多くの人が真剣に考えているのだろうか?もし、永遠のいのちを知らずに死ぬなら、まことに失礼ながら,この蝉とどこが異なるのだろうかと私は思う。蝉も、人も、果たすべき命の勤めを果たして、やがて共に土に還るのだ。そこに相違はない。
しかし人はそれだけで終わりではない。滅ぶことのない永遠の人間の霊は、その後、天国(神の国)と地獄(ゲヘナ)のいずれかで生き続けることになる。もし地獄に行けば、永遠の苦しみの中で、滅べないことを嘆き続ける事になる。生前の罪がこの二つの国を隔てている。法律上の罪ではない。ただ十字架によってその罪が赦され、罪なき人だけの天国人となれる。
<ヨハネ5:24~信じる者は、-略-さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています>
十字架の<罪の赦し>が無ければ、すべては裁かれ、滅びに至る。キリストを信じる者だけが永遠のいのちを得る。その上で、神はご自分を信じた私たちを「わたしの兄弟、姉妹」としてくださるのだ。何という恵み、喜びが天の国ではあるのだろう。
<マタイの福音書 12章49~50節~イエスは弟子たちの方に-略-だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです>
私たちは自分の力や努力でイエス・キリストを信じ、神の子とされ、兄弟だとされたのではなかった。神が、この世で生を受ける前に私たちを愛し、あらかじめ信じる者として下さった。だから決して誇ることなく、ただひたすら神に感謝をしよう。この世では、取るに足りない私を愛して下さった神に。
✝マタイ12章49~50節 ~イエスは弟子たちの方に-略-だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです
私たちは自分の力や努力でイエス・キリストを信じ、神の子とされ、兄弟だとされたのではなかった。神が、この世で生を受ける前に私たちを愛し、あらかじめ信じる者として下さった。だから決して誇ることなく、ただひたすら神に感謝をしよう。世ではこの、取るに足りない私を愛して下さった神に。
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