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2022年9月

2022年9月18日 (日)

闇はない

Ⅰヨハネ 1章5節   2017新改訳

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです

私はいつも失敗した書類を身近に置いています。交通違反した青い反則キップ、仕事で失敗した始末書など。これらを時々見ると、自分の失敗を思い出します。自虐的な趣味からではなく、高慢になり易い自分を改めて認識し、今後同じ過ちを繰り返さ図に済むよう、神に助けを求めて祈っています。その時いつも私は神さまの愛を覚えるのです。こんな私をも神が愛して下さっていることを。
 ところがクリスチャンであっても聖霊の注ぎを受ける前までは、このようではありませんでした。そんなマイナスな書類は即刻処分し、無かったことのようにして忘れることにしていました。つまりマイナスな自分を受け入れられないわけで、これは前向きな姿勢ではありませんでした。実際、そのつけのように、カメラのフラッシュライトを浴びたように、過去の失敗を時々思い出すのでした。
 それが度重なり、始終来るようになると、本当の自分がわからなくなってしまうようです。いわゆる解離性障害の入り口に立つのです。真の自分に目を背けるなら、その偽りはサタンにつけ入れられる闇となります。最近、仕事の関係で「解離性障害」に関心を持っています。「自分を守る」心の働きが、結局、自分自身を最も傷つけてしまう病です。(参:マタイ12:43−45)

 霊的に見るなら、弱く罪深い自分をありのままに受け入れられない心の機制が、悪霊の虜にされてしまう。このことからの解放は、すべての罪を赦す十字架無しに解決は不可能です。人は弱く、罪深いのですが、それをも赦し、愛してくださる存在があって、人ははじめて自分のありのままを受け入れることができるのです。
 父なる神に罪を悔い改めて告白し、赦され続けている者に、闇はありません。神は一切の闇を明るくする光なのです。実際天のエルサレムが降りてくる時、聖所からの光は神であり、そこには夜がありません。ですから真のクリスチャンは光の子であり、闇がないのです。
 一番大切なことは神の愛を知識として知っているのではなく、個人的な実際の体験として知っているかどうかということです。神の愛は私を私と和解させてくれます。守るべき自分は、取るに足りないこと、完全に溶け去ってなくなてしまうからです。自分よりも、もっと大切なものを見つけたからです。
 神様が触れてくださるカリスマ体験以降、頭でっかちクリスチャンだった私は、自分の失敗や不出来さを隠したり、逃げたりすることが無くなりました。こんな愚かな私まで愛して、十字架に架かってくださったイエス様を心から愛します。ですから違反キップを次の新しいものになるまで(笑い)、宝物とはいきませんが、振り返るためにもずっと持っています。隠す闇はないのです。

2022年9月11日 (日)

神の奴隷

ローマ 6章22節   新改訳2017

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。

 人は自覚しようがしていまいが、生来人は罪の奴隷である(※原罪とも言う)。ただ、キリストを信じ、罪の奴隷から、神の奴隷に替えていただける場合がある。もちろんそれは新主人となる神の意向次第なのだが、最後に買われていく奴隷側にも受諾の意思を確認される機会がある。それが信仰告白なのだ。多くのクリスチャンが勘違いしているかも知れないが、罪の奴隷から解放され、自由となって晴れて好きなように自分が生きていく、そんなことはあり得ない。確かに聖書ガラテヤ5章には「自由を得させるために」とありますが、それは主にある自由であって、「堅く(※信仰に)立って、再び奴隷のくびきを負わされないように」とある通りである。

 ひと昔前の奴隷時代、奴隷はその主人によって人生のすべてが大きく左右されていた。良い主人にであるならば、たとえ奴隷から解放される機会があったとしても、生きていく手段を持たなければ、生涯を奴隷として生きる選択をする者も多かったようだ。家族が居ればなおさらである。罪の奴隷から神とキリストの奴隷へと替わることは、ただ買い取られて持ち主が変わるだけでなく、あり得ない恵み、主人の嗣子(跡取りの養子)にと劇的な変化が伴う。さらに驚くべきことに、この主人キリストは、私を買い取るために自らを差し出し、贖(あがな)いの十字架に架かって苦しみの極みで死んでくださったのだ。キリストにあがなわれて、神のものとなった私たちは、罪の奴隷から解放されて自由になった心で、今度はキリストに自分を感謝し、キリストを愛し、すすんで自分を捧げる決心をし、その御心を行う忠実なしもべ奴隷として新たに生きるようになった存在である。これを新生という。ただ、これには三位一体のもう一つの神、聖霊体験が伴わないと実際的な効力が伴わない。

聖書でパウロはローマ1章1節、テトス1章1節で、またヤコブも1章1節で、bondservant(希doulas)と言う、奴隷という言葉を使っている。この言葉を使うからには、彼らも又、以前は罪の奴隷であったことを意識していたことが分かる。罪奴隷である意識が無いところに福音も悔い改めも届かず、新しい主人を歓迎し、その奴隷にすすんでなる気にはならないだろう。罪の意識は、その人に神があらかじめ<聖>を入れておいてくださるからこそ、自分の闇である<罪>が分かるのだ(ローマ8章30)。その意味で私たちは選ばれた存在であり、神に感謝を捧げ、自分たちを誇ることはできない。すべていのちある者は主を賛美せよ!

2022年9月 4日 (日)

You are A Warrior

ローマ 7章23節   2017新改訳

私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。

 Warriorとは戦士の意味です。日本語の武士とか兵隊より、また軍人の意味に近いSoldierよりも、今回の意図に近い言葉になります。
 なぜWarriorなのでしょうか?それは私たちクリスチャンは絶えず困難な戦いの中に置かれているからです。ローマ人への手紙 7章23節にあるように、肉体という罪の律法が私たちを虜にしているのに対して、聖書と聖霊による義の律法があり、この両者はクリスチャンである私の中で、常に激しい戦いを続けているからです。

 この戦いについて、若い時には、からだが衰える老境に入れば勝負はつくと思っていました。しかしそれは誤りでした。また、歴戦の勇士のように経験が増し加われば、た易く勝利するようになるとも思っていましたが、それも誤りでした。さらに聖霊のバプテスマを受けた直後のように、聖霊に満たされ続けて行けば楽勝だと思っていましたが、その聖霊は完全にではありませんが減衰し、戦いはかえって激しいものとなっているのでした。それは聖が引き上げられると、それまで気がつかなった悪と罪の意識も深まり、その闇もかえって深まるのでした。

 この戦いは主の霊を注がれた戦士がするものです。それ以外のクリスチャンは、聖書によって罪の状態が分かっていても、戦う術を知らず、自分が虜になっていることすら認識できていないことが多いので、本格的な戦いにはなりません。
 真の戦士は自分の弱さを試練によって徹底的に知らされているので、戦う意志はあっても、神により頼んでいます。Majesty(陛下)である神の指図に従って、その勇士、戦士として戦います。実際、これが最善な勝利、主の栄光を結果としてもたらすことを知っているのです。

  このように戦士となるには、聖霊のバプテスマの前後に、神から厳しい試練という訓練を受け、自分に死に、神に生きることを得ていることが前提になります。また戦士は世の賞賛を受けることなく、時に一見惨めに見えるラザロであったり、殉教の血を流しています。しかし戦士は目を天に向け続けており、天の報い、霊的な勝利者となっているのです。この世の目で判断してはいけません。

 この戦いの真の敵は誰でしょうか?それは肉なる自分自身です。自分自身に死に、神の所有とされた戦士には、敗北はあり得ないのです。戦いは既に終わっていると言っても過言ではありません。

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