闇はない
✝Ⅰヨハネ 1章5節 2017新改訳
私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです
私はいつも失敗した書類を身近に置いています。交通違反した青い反則キップ、仕事で失敗した始末書など。これらを時々見ると、自分の失敗を思い出します。自虐的な趣味からではなく、高慢になり易い自分を改めて認識し、今後同じ過ちを繰り返さ図に済むよう、神に助けを求めて祈っています。その時いつも私は神さまの愛を覚えるのです。こんな私をも神が愛して下さっていることを。
ところがクリスチャンであっても聖霊の注ぎを受ける前までは、このようではありませんでした。そんなマイナスな書類は即刻処分し、無かったことのようにして忘れることにしていました。つまりマイナスな自分を受け入れられないわけで、これは前向きな姿勢ではありませんでした。実際、そのつけのように、カメラのフラッシュライトを浴びたように、過去の失敗を時々思い出すのでした。
それが度重なり、始終来るようになると、本当の自分がわからなくなってしまうようです。いわゆる解離性障害の入り口に立つのです。真の自分に目を背けるなら、その偽りはサタンにつけ入れられる闇となります。最近、仕事の関係で「解離性障害」に関心を持っています。「自分を守る」心の働きが、結局、自分自身を最も傷つけてしまう病です。(参:マタイ12:43−45)
霊的に見るなら、弱く罪深い自分をありのままに受け入れられない心の機制が、悪霊の虜にされてしまう。このことからの解放は、すべての罪を赦す十字架無しに解決は不可能です。人は弱く、罪深いのですが、それをも赦し、愛してくださる存在があって、人ははじめて自分のありのままを受け入れることができるのです。
父なる神に罪を悔い改めて告白し、赦され続けている者に、闇はありません。神は一切の闇を明るくする光なのです。実際天のエルサレムが降りてくる時、聖所からの光は神であり、そこには夜がありません。ですから真のクリスチャンは光の子であり、闇がないのです。
一番大切なことは神の愛を知識として知っているのではなく、個人的な実際の体験として知っているかどうかということです。神の愛は私を私と和解させてくれます。守るべき自分は、取るに足りないこと、完全に溶け去ってなくなてしまうからです。自分よりも、もっと大切なものを見つけたからです。
神様が触れてくださるカリスマ体験以降、頭でっかちクリスチャンだった私は、自分の失敗や不出来さを隠したり、逃げたりすることが無くなりました。こんな愚かな私まで愛して、十字架に架かってくださったイエス様を心から愛します。ですから違反キップを次の新しいものになるまで(笑い)、宝物とはいきませんが、振り返るためにもずっと持っています。隠す闇はないのです。
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