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2022年10月

2022年10月30日 (日)

御霊によって歩みなさいⅡ

ガラテヤ5章16節   2017新改訳

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

 エルサレムの街と神殿を破壊され、亡国の民とされて遠くバビロンへ捕囚された人々は、異教のただ中にある中で、悔い改め、信仰を新たに模索した。その結果、シナゴーグ(会堂)で律法を学び、神殿儀礼に代わる礼拝をして安息日を守ることになった。また旧約聖書も完成し聖典とされ、二度と偶像礼拝の背きを犯さない律法の民へと変えられていった。これこそエルサレムを崩壊させた神の御心で、エレミヤによって幾度も預言されていたことであった。

 しばらく後にバビロニアを滅ぼしたペルシャの時代になって、これも預言通りイスラエルへの帰還を果たし神殿を再建した民だったが、四百年も経つと律法尊守は形骸化していた。そのタイミングで神はキリストを地上に送られ、「神を愛し、隣人を愛する」律法の目的を教えられたが、律法の破壊者として権力者からは異端視された。しかし神の子イエスは自らを犠牲の捧げ物とされ---罪のあがないと真の救いを十字架上で成就された。それでもイスラエルはこのキリストを拒み続け、エルサレム教会に対しても、<割礼>を受けさせ、ユダヤ教の枠内へと強要し続けた。
 エルサレムに教会が存在し続けるためには、結局エルサレム教会はユダヤ教キリスト派として、その中に留まり続けたのであり、パウロの信仰義認=無割礼は受け入れられないものだった。このことはエルサレム教会が選んだ指導者が筆頭弟子ペテロではなく、イエスの肉の兄弟ヤコブであったことからもうかがわれる。

 今に生きる私たちは、聖書と同等に教皇権や教会会議を権威に置き、七つのサクラメント(秘蹟)という神秘儀式によるカトリックと対峙しなければならない。乱暴な言い方であるが、カトリックは割礼という儀式を至上としたエルサレム教会の再現とも言える。しかしそれに対して誕生したはずの私たちプロテスタント教会においても、儀式化、形骸化は密かに進んで来ている。
 福音派からカリスマ派に恵みと神の導きによって来た私がある時、高校時代に通っていた教会の礼拝に出席しなければならない事があった。しかしあまりの霊性の無い礼拝に、心底、霊と魂が冷え、寸時もいたたまれない思いをした。それらの教会が2030年危機と称される高齢化で、廃屋となって消えて行くのは、やむを得ないことだと思う。
 聖霊は風のように吹き、どんなに聖霊が注がれた教会であっても、一世代限りで衰えてしまうのは珍しいことではない。聖霊は神からの賜物であって、決して人の自由になるものではない。御心を熱心に求め、行おうとしないなら、サウル王のようにたちまちそれは取りさらわれる。しかし主なる神の力なしに、何事も為し得ないことは明らかだ。それ故、私たちはいよいよ熱心に主を求め、間近い福音の大宣教と携挙に用いられるよう、飢え渇いて主の御心を求め続けよう。

 

 

 

 

 

2022年10月23日 (日)

御霊によって歩みなさい

ガラテヤ5章16節   2017新改訳

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

 このガラテヤ書は特定の教会に宛てられたものではなく、現在のトルコの中央部地方の諸教会に宛てられた、いわば地域に存在する諸教会向けの手紙が特徴です。次にパウロの神学の原型とでも言うべき、信仰義認が分かり易く説かれていることも特徴です。ルターはヴィッテンベルグ大学でガラテヤ書を講義後、城門に95ヶ条の論題を張り出し、宗教改革が始まりました。そのルターは「私はこの手紙(ガラテヤ書)と結婚した」と言ったほど、この書の影響は大きいのです。

 ガラテヤ地方はお分かりの通り、パウロがバルナバとともに第一次伝道旅行で開拓したピシディアのアンティオキア、イコニオン、デルベ、ルステラなどの諸教会があります。既にシリアのアンティオキアでもあった、ユダヤからきたユダヤ人クリスチャンたちが、この地を訪れ、救われるために律法を守って割礼を受け、ユダヤ人にならなければならないと異なる福音を説いたのです。
 確かに彼らはイエスさまから直接任命された使徒たちという後ろ盾があり、権威面では彼らに分がありました。見かけもパウロよりは立派だったようです。しかし彼らの宣教は、明らかにエルサレム会議で結論を得たはずの異邦人への取り決めに違反していました。

 この状況を聞いたパウロはすぐに駆けつける代わりに、この手紙を書き送ったのですが、それが後に宗教改革の重要な引き金となったことになります。神の計画は、大きく計り知れません。
 この手紙は福音の本質を非常に分かりやすく説いています。無割礼でも聖霊の注ぎを受け、信仰を得たことで、割礼は関係がないこと。その時受けた聖霊は十字架の恵み、罪の赦しによって与えられるもので、恵み、賜物であること、従って律法によって義とされる教えは、恵みに反するものであることを明確にしています。
 さらに踏み込んで言えば、人は律法を完全に守る自分の力・行為では全うできないこと、そのために神の子イエス・キリストが来られ、十字架の恵みによって信じる者の罪を赦し、罪がなくなった人々に聖霊さまが住むことが可能になったことです。この「御霊によって歩みなさい」は信じる者に住まう御霊に従って歩むなら、ユダヤ人たちの偽りがわかり、聖霊の知恵と力によってパウロの正しさが分かるようになることを指し示したことばです。

 今私たちは、これまでの諸々の世の霊の奴隷から訣別し、イエスの送られた聖霊さまに従い、この方に人生を捧げ、主人のしもべとして生きることを決心しましょう。聖霊の正しさは、聖霊の九つの実によってはっきりと証明されるもので、真の救いは、キリストを信じて、自らの意志をもって人生を積極的に神に委ね(献げ)て、みこころの時に初めて受け取ることのできる賜物であることを再確認し、切に祈り求めましょう。信仰もまた、神から来る恵みの賜物なのです。

2022年10月16日 (日)

もっと光を

黙示録21章22~26節  2017新改訳

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

 21章22節~25節からわかる事は、天から降った神の都では、神は光そのものであることです。これは私たちが「光の子ども」(エペソ5:8)だとされている裏付けでもあります。 

今週のある日、急いで仕事に行こうとした時、私的には軽い失敗をしました。黒いズボンに黒のソックスを選んだつもりだったのですが、職場に行って気づきました。ソックスのまま仕事をする職場だったのですが、ソックスが黒ではなくて、紺色だったのです。私的にはどうにもチグハグで合わなくて、気に入らないこと甚だしい。家でソックスが入っている棚はちょっと暗くて、紺も黒も同じに見えていたのです。

 暗くてよく見えないと、見誤って判断しがちです。これは信仰の面でも例外ではありません。光が信仰の中心なのです。クリスチャンの子どもたちは、光なので正しくないことを受容できず、世の闇の子どもたちの妬みの反発をかうのです。
 ところで私たちの神は光であり、わたしたちは光の子ども(エペソ人5:8)です。しかしクリスチャンと言いつつ、もし私たちの心に大きな闇があるのであれば、大きな問題です。その人には十字架の光が届いていません。つまり赦されていない罪が大きく残っているのです。サタンはその罪を大きく突いて再び支配しようとします。その多くの場合、肉のクリスチャンだと言ってもいいでしょう。

 ここでの闇とは心の傷であったり、大失敗や封印した過去の思い出したくない出来事だったりします。また、いじめを見ても見ぬふりをしたり、事実を言えば不利益になるため、自分を守ったりした数々のことを指します。そのようなことのすべては裁きの日に明らかにされるのですが、悔い改め、十字架の赦しの特権を行使しないのは不思議です。それは光が当てられず、己が闇で覆われていることにすら気づかさせなくさせられているからです。これは大変重要なことです。

 神を信じる者には聖霊が内住されています。しかし本当に聖霊さまが居られるのなら、その人の内に光が当てられて、闇が照らされ、もはや自分自身には希望がないことから、全ての罪を告白し己を神に燔祭の生贄として、自分を捧げることに戸惑いはないはずです。神はあわれみ深い方で、その献身を必ず受け入れてくださるのです。つまり自分に死ぬ=自身の解放であり、次のようなことが起こってきます。
本当に生かされていること、その喜びが溢れる。キリストの大使としての使命があり、生きる目的があること。これら人生を一変させるこれらのことが起こることを、<新生>といい、全て聖霊さまの働きの結果です。
 さあ、あなたも「もっと光を」受けて、神様の子どもになられませんか。

2022年10月 9日 (日)

あわれみを受けて

Ⅱコリント4章1節   2017新改訳

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。

 クリスチャン各々に、それぞれ神さまへの思いや見方があると思います。私に関して言えば、私の一番神さまのお人柄、いや神柄何ですが、それはこ2コリ5章で言っている「あわれみ」深いお方だと感じています。神は完全な義にして聖なるお方ですから、私たち人間が99の良いこと、義を行っても、1つの悪いこと、つまり正しくない罪があれば、神はその人を受け入れることがお出来にならず、神の前での審きではアウトなりますし、ゲヘナ行きとなります。
 これは苛烈に聞こえるかも知れませんが、おにぎりに、たった一粒でも腐ったものが混じっていようものなら、そのおにぎりは食べられないようなものです。その実例がエジプトから脱出した何百万のイスラエルの民の内、約束の地に入れたのがたった二人だけであったことです。
 しかしそれを何倍にも補って余りあるものが、「あわれみ深い愛」が神さまであることはどうでしょうか?これが神さまの本質だと聖書は念を押しています。そうでなければ人は何のために創られたのでしょうか。人は神からあわれまれ、愛されるために創造されたのですから。神のあわれみと愛によって、私たちは黒い体を赦されて真っ白にしていただき、天のエルサレムの一員とされるのです。しかり、私たちはこの恵みの時代に生きているのです。   
 はっきり申し上げて、神のこの「あわれみ」が分からない方は、たとえ自分はクリスチャンだといくら自称されていても、ひょっとして<救われていない>可能性があります。なぜでしょうか?それはあわれまれなければならない、ご自身の罪が分かっておいでにならないということになり、おそらくその人にとって、十字架の赦しも無効になっていると思われるからです。

 逆に自身の罪が万死に当たり、ゲヘナ行きが当然だと分かるのであれば、十字架はその人のいのちそのものになることでしょう。なぜなら愛されるに値しない自分がいて、絶大な神がいのちを捨てて愛してくださった・・・このあわれみとしか言いようのない、神の愛を実感することでしょう。その上で、罪が遮断していた神との交わり・・・その人にある聖霊の宮を通して・・・の深まりが増すに連れ、それがますます強固にされ、神を愛するこころにより、遂には父の御心を行うことがその人にとって全てとなり、喜びとなります。
 あわれみを受け、値しない者からの神への愛こそ、最も神が喜ばれることです。

2022年10月 2日 (日)

愛がなければ

Ⅰコリント13章1-3節   2017新改訳

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちませ。。

 本日の聖書日課の箇所ですが、そこには異言や預言の賜物、あるいは全財産を施しての献身や殉教、あるいは山を動かすほどの信仰があっても、そこに愛がなければ(but have not Love)空しく意味がない断言しています。

 私たちの群れでは次章の「熱心に求めなさい」から、礼拝で単に預言するだけでなく、神学校で預言者クラスを作り、預言を熱心に求め、学び、練習し続けています。しかし注意すべきことに、聖書でパウロはそれらの前にまずもって「愛を追い求めなさい」と指示しているのです。KJV的には愛を追い求めなさい(Pursue)、賜物は望みなさい(desire)と求め方にも差をつけています。愛なくしては、御霊の賜物や信仰の行いは意味を為さない空しいものになる、この聖書の御言葉をどれほど私たちは認識し、正面から向き合っているのだろうかと気になる。

「愛を追い求めなさい」とは、具体的には何であろうか。なぜか掴みどころがないように見え、それゆえ賜物ほど具体的に求められていないかのように見える。けれども聖書の時代、それは誰にも分かる共通のイメージを持った言葉であったはずだ。それが明確に認識できないのであれば、考えられないことだが、《愛》を知らず、直接触れてもいない実態があって思い間違いをしているのかも知れない。

 では《愛》とは何か?多くの人は「人を深く心から大切に思う」「自分以上に愛すること」だと思うかも知れない。しかし私はそれこそ聖書の《愛》を知らないことから来ていると思う。言葉としてはそのように言えても、それは単なる抽象的な概念である。だから分からなくなっているのではないか。<愛>とは先ずもって神に愛され、その神に対する愛に他ならない。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい マタイ22:37など」と主イエスは私たちに最も大切な戒めとして教えている。
 なぜなら神の本質は愛であって、ヨハネは「神は愛 1ヨハネ4:8or16」と断言しました。聖霊のバプテスマを受け、神に触れられたならば、これが骨の髄まで分かります。従って自分のいのちを憎み、死に、自分以上に神を愛する者に変えられるのです。これは聖霊の力であって、人のものではありません。神を愛せない者は未だ神の内にいないか、知っていない者です。

 愛とは個人的な関係のことであり、個人的、具体的な交わりです。夫婦や親子のように、交わりを通して愛は深く強固なものに変えられ強められます。交わりのない愛は存在しません。十字架でのいのちを持って愛して下さった神に、人に過ぎない者が、自分の血肉の命以上に愛するようになるのは、当然のことではないでしょうか。

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