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2022年10月 9日 (日)

あわれみを受けて

Ⅱコリント4章1節   2017新改訳

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。

 クリスチャン各々に、それぞれ神さまへの思いや見方があると思います。私に関して言えば、私の一番神さまのお人柄、いや神柄何ですが、それはこ2コリ5章で言っている「あわれみ」深いお方だと感じています。神は完全な義にして聖なるお方ですから、私たち人間が99の良いこと、義を行っても、1つの悪いこと、つまり正しくない罪があれば、神はその人を受け入れることがお出来にならず、神の前での審きではアウトなりますし、ゲヘナ行きとなります。
 これは苛烈に聞こえるかも知れませんが、おにぎりに、たった一粒でも腐ったものが混じっていようものなら、そのおにぎりは食べられないようなものです。その実例がエジプトから脱出した何百万のイスラエルの民の内、約束の地に入れたのがたった二人だけであったことです。
 しかしそれを何倍にも補って余りあるものが、「あわれみ深い愛」が神さまであることはどうでしょうか?これが神さまの本質だと聖書は念を押しています。そうでなければ人は何のために創られたのでしょうか。人は神からあわれまれ、愛されるために創造されたのですから。神のあわれみと愛によって、私たちは黒い体を赦されて真っ白にしていただき、天のエルサレムの一員とされるのです。しかり、私たちはこの恵みの時代に生きているのです。   
 はっきり申し上げて、神のこの「あわれみ」が分からない方は、たとえ自分はクリスチャンだといくら自称されていても、ひょっとして<救われていない>可能性があります。なぜでしょうか?それはあわれまれなければならない、ご自身の罪が分かっておいでにならないということになり、おそらくその人にとって、十字架の赦しも無効になっていると思われるからです。

 逆に自身の罪が万死に当たり、ゲヘナ行きが当然だと分かるのであれば、十字架はその人のいのちそのものになることでしょう。なぜなら愛されるに値しない自分がいて、絶大な神がいのちを捨てて愛してくださった・・・このあわれみとしか言いようのない、神の愛を実感することでしょう。その上で、罪が遮断していた神との交わり・・・その人にある聖霊の宮を通して・・・の深まりが増すに連れ、それがますます強固にされ、神を愛するこころにより、遂には父の御心を行うことがその人にとって全てとなり、喜びとなります。
 あわれみを受け、値しない者からの神への愛こそ、最も神が喜ばれることです。

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