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2022年10月 2日 (日)

愛がなければ

Ⅰコリント13章1-3節   2017新改訳

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちませ。。

 本日の聖書日課の箇所ですが、そこには異言や預言の賜物、あるいは全財産を施しての献身や殉教、あるいは山を動かすほどの信仰があっても、そこに愛がなければ(but have not Love)空しく意味がない断言しています。

 私たちの群れでは次章の「熱心に求めなさい」から、礼拝で単に預言するだけでなく、神学校で預言者クラスを作り、預言を熱心に求め、学び、練習し続けています。しかし注意すべきことに、聖書でパウロはそれらの前にまずもって「愛を追い求めなさい」と指示しているのです。KJV的には愛を追い求めなさい(Pursue)、賜物は望みなさい(desire)と求め方にも差をつけています。愛なくしては、御霊の賜物や信仰の行いは意味を為さない空しいものになる、この聖書の御言葉をどれほど私たちは認識し、正面から向き合っているのだろうかと気になる。

「愛を追い求めなさい」とは、具体的には何であろうか。なぜか掴みどころがないように見え、それゆえ賜物ほど具体的に求められていないかのように見える。けれども聖書の時代、それは誰にも分かる共通のイメージを持った言葉であったはずだ。それが明確に認識できないのであれば、考えられないことだが、《愛》を知らず、直接触れてもいない実態があって思い間違いをしているのかも知れない。

 では《愛》とは何か?多くの人は「人を深く心から大切に思う」「自分以上に愛すること」だと思うかも知れない。しかし私はそれこそ聖書の《愛》を知らないことから来ていると思う。言葉としてはそのように言えても、それは単なる抽象的な概念である。だから分からなくなっているのではないか。<愛>とは先ずもって神に愛され、その神に対する愛に他ならない。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい マタイ22:37など」と主イエスは私たちに最も大切な戒めとして教えている。
 なぜなら神の本質は愛であって、ヨハネは「神は愛 1ヨハネ4:8or16」と断言しました。聖霊のバプテスマを受け、神に触れられたならば、これが骨の髄まで分かります。従って自分のいのちを憎み、死に、自分以上に神を愛する者に変えられるのです。これは聖霊の力であって、人のものではありません。神を愛せない者は未だ神の内にいないか、知っていない者です。

 愛とは個人的な関係のことであり、個人的、具体的な交わりです。夫婦や親子のように、交わりを通して愛は深く強固なものに変えられ強められます。交わりのない愛は存在しません。十字架でのいのちを持って愛して下さった神に、人に過ぎない者が、自分の血肉の命以上に愛するようになるのは、当然のことではないでしょうか。

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