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2022年11月

2022年11月27日 (日)

素晴らしい天の御国

✝マタイ 6章33節   2017新改訳

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

 クリスチャンは皆、自分は「天国に行ける」と思っています。しかし天国がどんな所かはよく知らないまま、この世の生を終えてしまう人が多いようです。しかしそれは、未知の外国へ飛び込んで行くよりはるかに無謀です。タラントのたとえ話にあるように、天国はこの地上での生活の上に繋がっていますし、そこでの報いは、行った後からではどうすることもできません。地上での準備が必要であり、それにはきちんと知っておかなければなりません。その上で、私たちが行く天の御国がどんなに素晴らしい所なのか、それを知ることがこの世にある私たちにどんなに希望を与え、使命を熱心にさせることでしょうか。天の御国を知ることが私たちを大きく変えるのです。

 天国を知ることは「私は天国へ行った来た」類の本や映画からではなく、100%聖書から知るべきです。その聖書はなんと言っているでしょうか?
 聖書は最後の審判の時、血肉の命を終えた全ての人々は、よみがえらされると教えています。そして全ての人々は、いのちの書に従ってゲヘナと天国のどちらかに分けられます。聖書では「ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません」(マルコ9:48)とあり、死ねない体があるために永遠に苦しみ続けなければなりません。恐ろしい所です。

 しかし、以下に述べるように、天国は真逆です。
○一辺が2200Kmで城壁が宝石で飾られ、美しく広大な天のエルサレム
○太陽や月などの 天体が消え、地形が平に一変する
○聖所からの光りで闇のない世界
○苦しみ悲しみのない世界
○すべての動物は菜食に変わる
○聖所からいのちの川が流れ出て、その両岸には十二の木の実がなる
○御霊のからだとなって、老いず、食べることができ、移動が自由
○神への礼拝と賛美が絶えず、諸国の民は捧げものを持って礼拝しに来る

 天国はこんなに素晴らしい新天新地として聖書に描かれています。地上で使命(タラント)を忠実に用いた者は「よくやった」とほめられる。また住む所はあらかじめ備えられている。元々は罪深い人に過ぎない私たちですが、聖なる主と永遠に交わり続けられる所、そこが天国です。
 如何でしょうか。天国に比べれば、この地上での生活、世での大切なものなど、実に取るに足りないものです。よくクリスチャンの墓碑に「私たちの国籍は天にあり」(ピリピ人3:20)と記されています。確かに私たちの体はこの地上にあろうとも、目を天に上げ、天のために今を生きているのです。常に心がけましょう。そして祈りましょう。私たちは天国人であると。

 

 

 

 

2022年11月20日 (日)

キリストの律法

ガラテヤ 6章2節   2017新改訳

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。

 福音書の中でイエス様はパリサイ人と律法学者たちという、当時の指導者層を厳しく非難されています。イエス様は「愛と赦し」のイメージが強いのですが、これをどう受け取ったらよいのか、いまいち理解できていないクリスチャンが多いのではないでしょうか。
 この時代は預言者が現れていない四百年であり、問題や困難を解決し、人々に指針を与える神の言葉が失われていた時代だと言えるでしょう。イスラエルの人々はこの間、人々は神の声を聞く代わりに、ひたすら律法を細かく生活に適用した、口伝律法を守ることが救いであるかのように誤解し、人によって作られた律法を厳密に守ることが、神の国に行ける唯一の道になるました。

 しかしここに大きな問題が生じました。それは細かな決まりを守ることに忠実なあまり、木を見て森を見ずのような、律法のそもそもの精神が失われて行ったのです。律法の究極は「神を愛し、隣人を愛する」ですが、「良きサマリア人」のように、決まりを守ってさえいれば天国に行けるわけなので、対象の相手、隣人を見ることがなくなったのです。これでは本末転倒です。どんな善行も相手のためではなく、自分が律法を守っているかだけがポイントなのです。これでは、神に近づくための律法が、ますます生ける神との出会いを失って行くという、皮肉な結果になっていくのです。ですからイエス様が「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない」(マタイ23:13)と非難されるのも当然だったのです。

 このような中で来られたイエス様は、古い律法を成就させ、新しい契約、新しい律法を私たちに与えてくださいました。それは「神を愛し、隣人を愛する」はよく似ていますが、根本的な土台が全く異なっているのです。それは十字架を信じた者の罪を赦すことでした。なぜそれが決定的に重要であるかというと、聖なる聖霊様は罪とは同居できない点にあります。人に入れなければ、その人と聖霊は関係ありません。神である聖霊の「愛」「導き」が働かないのです。その力を発揮されません。従って新しい契約では、「キリストの律法」は、人の力によってではなく、神の力によって成就していくという、土台変換が行われることになり、私たちクリスチャンはますます神を讃え、御名を崇めるのです。  参考(ロマ10:4)(ロマ10:4)

 それゆえ、私たちは「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」 (ガラテヤ6:2)という御言葉を、神の愛によって行う者になっていきましょう。

2022年11月13日 (日)

2023年年間聖句

申命記 1章40節 

【新改訳2003】 あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。
【新改訳2017】 あなたがたは向きを変え、葦の海の道を通って荒野に向かって旅立て。

〈あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て〉これは第三版ですが、向かう方向を示しているだけですが、2017では〈葦の海の道を通って〉と、実際に行って通れ、と具体的に言っています。
 さて私たちの群れはスタートしてこの11月で38年7ヶ月経ったわけですが、40年が目前です。この時点で、これまでの長きにわたって荒野のような訓練を受けてきたし、まだ約束の地にも入れていないが、しかしこれから、その成就の時を迎えて行くようになると語られたのです。

 リバイバルは始まっているのだが、ちょぼちょぼの段階なのです。私自身は今の時を、ヨルダン川を前にしたモアブ平原に居るとするならば、実はこの時すでにモーセはヨルダン川の東岸地域を征服し、2部族に与えているんです。目指すカナンの地を前にして、ちょぼちょぼではありますが、確かな足場は築いているのです。この群れとダブりませんか?そしてこの御言葉です。

 私たちは患難時代前半に世界を覆う大リバイバルがあることを知っています。私たちはそれに用いられるのです。クリスチャンが大量に起こされて行く時というのは、決して順風満帆の時ではありません。ローマ時代は、ネロ帝などによる大迫害に耐えて国教になりました。カトリックにとって最悪の危機、ローマの滅亡が逆にヨーロッパの諸王の上に立つ教皇権の確立になりました。プロテスタントの誕生も然り。韓国のリバイバルも、日本軍の支配に屈服せず、多くの殉教を出し、次には朝鮮戦争という、民族の血を血で洗う大悲劇を通して実現しました。困難なしに神のわざが現されることはなく、リバイバルは始まらないないのです。私自身も、人格が変わるほどの苦しみを通して神様は現してくださったのです。

 これから約束の成就の時を迎えようとしているだけでなく、この試練で得たものは何か?「私たちは罪人である」ことでした。にも関わらず、私たちは神の祝福を受け、恵みを受けてきた。そして神からのものも、自分の力でやろうとしてきた罪人である、とこの時語られたのです。私たちは神さまあっての存在で、それ以外は何もできない者です。今、神から真に来たもの、御心のものを忠実に果たしたい・・・それが<群れがスタートした初めの信仰深かった段階で、葦の海>なんでしょうか、に戻って主に委ね、<リバイバルでの神の働きを担えるように再出発して行け>・・・年間主題の意図はこれなのではないか、と個人的に思わさせられています。

 この成就の段階において、自分の力はアウト、そしてこれまでの向きを変え、神さまの力に依り頼って、困難な道が待っているけれども、神のリバイバルの働きを担って行こう、約束の成就を得よう、これが今年の年間主題だと私は見ました。

2022年11月 6日 (日)

大能のちから

エペソ 6章 10節   2017新改訳

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

 ここでの「大能の力」とはなんでしょうか? それは同じ言葉が出ているエペソ書1章17節以降によると、次のように説明されています。「信じる者に働く神のすぐれた力」であると。私の理解ではそれは<聖霊の賜物>のことであって、信じられないほど偉大なものであるとパウロは述べているのです。もちろん私も全く同感します。ところがこの賜物に関して、多くのキリスト教徒は信仰の告白やバプテスマと同義語と見做し、神の「信じられないほど偉大」なこの恵みに与っていないのです。神の力を知らない、これは神と人にとって由々しき事です。その上現代では聖霊を知らない信者が圧倒的多数となり、聖霊の賜物について「熱狂的、狂信的」とか「カルト」視されている時代でもあるのです。しかし神にある者は、人から動かされることはありません。

 「大能の力」を求める者には、すべての栄光を神に帰す者になるべく、個々人に相応の道(神に己を明け渡す試練の過程)を通されることでしょう。したがって、神は人の心をご存じなので、神に対し、ご利益的な求めの段階の方は決して受ける事ができません。しかしそうでない方にも、もし不思議なわざが現されるとしたら、その方は悪霊に用いられている可能性が高いのです。
 大能の力は神である聖霊の力であり、人への賜物を通して現されるものです。それは決して聖書の範囲を超えるものではなく、個々への具体的な適用として用いられます。そうでないと、サウル王のように神が悔やまれることになりますし、終末が近い今となっては、神が悔やまれるケースはまず起こり得ないはずです。

 私たちの教会のアイデンティティは、まさに「大能の力」です。これを牧師である私は、一般のプロテスタント教会の誤解を解き、生ける神を崇める聖書信仰の上に、「聖霊の賜物」を用いる教会であるというイメージを追求し過ぎていたと反省させられています。それは年度末のタイミングで、かつて私が所属していた同じ教団の教会を訪れ、そこで痛切に感じさせられたのです。「お前はどこから出てきたのか?」と。

 ああ、みなさん、この群れの看板に偽りがなければ、私たちは「大能の力」ある教会なのです。立派な会堂も墓地もくつろげるスペースも、ついでに宗教法人資格も、世的なものは何もないかも知れませんが、主なる神が、聖霊なる神が居られ住まわれておられる教会なのです。神が主任牧師であり、神が聖霊を通して直接導かれる神の教会なのです。これ以上の大切なアイデンテティが他にあるでしょうか。そしてこのアイデンティティに堅く立たなければならないのです。
 ですから私は言います。賜物の代表である「癒やし」と「預言」をこの教会のこれからの看板にします。私たちは「癒やし」と「預言」の教会、これをこれからはあからさまに積極的に押し進めて参ります。

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